哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

道徳教育は人を善人にするか


 希望とは、ある出来事が起こってくれるように願うことと、その出来事が起こりそうだと思うことをとりちがえたものです。

ショーペンハウアー「みずから考えること」心理学的覚え書 石井 正訳)


一般に、希望を持つことは、持たないより良いと信じられているが、希望が正しい判断を狂わせ「千にひとつの場合をも、たやすく起こりうるもののように思わせ」る悪魔である事実は無視されている。
しかし、おそらくだれひとり、このような心の愚かしさから離脱してはいますまい。


 認識は意欲の呪縛から自由になることがほとんどできない。

できない理由ははっきりしている。人の認識はいわば常に、あらかじめ意志に強姦されているからだ。

そして人は抑圧された心の底で、その事実を深く恥じているので、無意識にそれを隠し通そうとする。



人は、自分の生殖器を隠すごとくに、自分の意志を隠さなければなりません。これら二つのものは、いずれも、存在の根ではありますけれども。
また、人は、自分の顔だけを他人に見せるごとく、認識のみを表わすようにしなければなりません、これを犯せば、卑俗になるという罰を受けます。

ショーペンハウアー「みずから考えること」心理学的覚え書 石井 正訳)


普通、人は自分の認識のみを表わしているとみずからは信じていても、その実、認識の薄皮をかぶった意志を表わしていることが他人にバレバレなのは別に珍しいことではない。隠し方が下手くそなので、少し眼を凝らして視さえすれば意志が透けて見えている。
しかし、隠し手の認識だけは自分をおかしている意志を決して視ない。たとえ鼻先に突きつけられようと白を切るのだ。しかもこの作業を無意識で済ますことが簡単にできる。人は自分に対して先天的な嘘つきなのだ。


 このような人間を、外部からの働きかけ(道徳教育)で、善人にできるだろうか?


 世の中には内心自分の判断力に自信のない人が大勢いることはいうまでもないことだ。そのような人々が過去の道徳的人物のエピソードなどを使った道徳教育を受けることによって、その善き他人の経験と教訓を自分の内部の自発的意欲の代用とすることはある。

 さらに意図的なやり方が因果律的フィクションである。これは、善行にはかならず御利益があるといった内容の作り話によって、いわば偽の動機を相手の中に作りだす方法である。

 ショ-ペンハウアーはそのような欺瞞の代表例として「相手の認識を偽造する」宗教的フィクションを次のように分析している。

「実際に目の前にある事情でも知られることがなければ効果を失うことがあるのと同じように、まったく想像上の事情であろうとも実在上の事情と同じ効果を発揮する」

「ある人がいかなる善行も来世で百倍のお報いがあるであろうと固く信じ込まされていたとしたら、かかる確信はいかにも文字通りに長期支払手形のように通用し、効力を発揮しつづけるであろう。彼が別の明察を得ていたとすれば、利己心にもとづいて他人から金品を奪い取るであろうが、彼は今のこの場合には同じ利己心にもとづいて、今度は他人にその金品を施すようなこともするかもしれない」

以上ショ-ペンハウアーの主著「意志と表象としての世界・正編」(西尾幹二訳・中央公論社)第五十五節から引用。以下 55 と表記する。 



「来世で百倍のお報いがあるであろうと固く信じ込まされていたとしたら、かかる確信はいかにも文字通りに長期支払手形のように通用し、効力を発揮しつづけるであろう。」の箇所など読むと、イスラム教徒の自爆テロの心理を想像して暗澹たる気持ちになってしまう。(ショーペンハウアーはたぶんキリスト教を念頭に浮かべて論じているとおもうが) このようなやり方では、人々の本来の徳の可能性は損なわれてしまう。なぜなら、そのようなフィクションを信じる者は自愛心からそうするにすぎないからである。現実への適応に失敗すれば二度とそのての話を信用しなくなる。
 かれらは道徳的教訓ばなしを自分の意欲の代用にしてはみたが、それで心の持ち方まで変えたわけではないからだ。
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それゆえ、彼らは実社会の中でもまれていくうちに、それが現実にあっていないことに気づき、今まで思い違いをしていたことへの失望と反動でそれ以後道徳的な事柄に対してことさらに冷笑的な態度や露悪的な行動をとるようになってしまうことが多い。

カントの名を出して「徳を欲せ」とはいえる。しかし効果は期待できない。「……単なる道徳のお説教をするというだけではなんら効果をあげることはできない。そういう道徳は動機づけ(理由づけ)を行なっていないからである。ところで動機づけを行なっている道徳が効果をあげることができるのは、ただ相手の自己愛に訴えることによってのみである。だが、自己愛から発したものには、道徳上の価値はない」
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「浄福へと導いていくものが、動機から、ならびに熟慮をへた計画的意図から生じるような所業であるならば、徳というものは、どうこじつけようとも、つねに小利口な、組織的な、
見通しのきいたエゴイズム
であるにすぎない」
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 ショ-ペンハウアーはカントの有名な定言命法(「汝なすべきであるがゆえになすべし」)を批判して「すべしというのは子供とか、幼稚な年令にある民族に向かって言うことであって、成人に達した時代の教養をすっかり身につけている人々に向かって言うことではない」という。53

 さらに「カントが世間にひろめているのは道徳的なペダンテリーであるという非難はおそらく免れ難いであろう」
13とさえいっている。


※『ペダンテリー』
 学者ぶること。衒学趣味。


 たんなる知識・情報の一つとして知っていることと、「生ける確信」
57 となっていることの間には越えがたい深い断絶がある。すなわち、なすべきことを知っているだけではまだ全然徳があることにはならない。

「われわれの道徳説や倫理学でもって、有徳の士、高貴の士、聖人君子をつくり出そうと期待するようなことは、美学でもって、詩人、画家、音楽家をつくり出そうと期待するのと同じくらい愚劣なことであろう」

「徳にとっては概念は役に立たず、道具としてしか用をなさない」
以上53

 徳についての概念や模範例による学習はキッカケになれるだけである。すなわちそれは人間が生来もっていた性質が現われるための機会因にすぎない。

 道徳教育が直接人間を道徳的にするわけではない。真相はその逆で、人間に徳がもとから備わっているかぎりにおいて、道徳教育もいくらかの意味と価値を認めうるにすぎない。

 じっさい論語を読むだけでみな人徳者になれるなら誰も苦労はしない。

 すべきそのことを本当に欲しているかどうかが問題なのだ。

 すなわち徳とは、徳を欲することだ。しかし「欲するということは教えようがない」セネカ)。
55したがって、徳を教えることはできない。


「外部からの影響が、従来意志の欲していたものとはなにか本当に別のものを欲するように、意志に仕向けることはけっしてあり得ない」

「動機のなしうることといえば、意志の目ざす努力の方向を変えるということ、すなわち変わることのなく意志が求めているものを従来とは違った方法で求めるように意志に仕向けるといったことにつきている」
以上55

 欲することは本人のみがなしうる。他者がどうこうできることではない。よく例にあげられる「馬を水飲み場まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」の喩えは、このことを云っている。 


 ショ-ペンハウアーは頭脳明晰な徹底したリアリストで、その洞察は真相を鋭くついている。




 しかし、おれ自身はショ-ペンハウアーほど仮借なき立場に立つ勇気はとてもない。おれは、動機にもとづく善行は真の善行(おのずからなす善行)の練習になるとおもうので善いことだと信じたい。この一点でおれは確かに希望を持っている。
ただし、なんであれ練習する者は目的意識をもたねば上達しない。これは自分が真の善行に少しでも近づいていくためにやらせてもらうのだという身にそくした自戒がなければならない。

 現実は、たいていそのことを忘れているか、あるいはそもそもそのことに気づきもしない。

 練習でしかないギブアンドテイクの善行に満足し、自慢さえして、そんな善人かぶりの自己に何の疑問も感じないのでは上達は絶望的といわねばならない。


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