Pitbull - Fireball ft. John Ryan
ターン・プッタタート講義、あるいは法話「何もしなくてもよい」より昨日から「サティ ぼんやり何かをしない不断の注意」という仏教記事をアップしようと何度も試みたが『エラーが発生しました。指定された記事が見つかりません。新規記事を投稿した場合には、反映まで時間がかかることがあります。記事が反映されるまでしばらくお待ちください』画面が出て、いつまで待っても、できない。今日、上の音楽動画をアップしてみたらすんなりできた。しかし仏教記事はやはりできない。原因不明。 で、この音楽記事に追加する形で仏教記事をコピペして、とりあえずアップした。ですので、上の音楽記事との関連は特にない、悪しからず。 記事がアップできない状態が続くなら、アメーバ、はてな等に引越すかもしれません。
「人間は基本的には煩悩がなく、時々煩悩が生じる」というのと、「人間は寝ても覚めても、昼も夜も休みなく煩悩がいっぱい詰まっていて、時々、抑圧した時だけ消える、あるいは止まる」というのと、どちらの言い分が正しいか、よく分かるまで熟慮しなければなりません。これが一つの言い方です。どちらが正しいでしょう。
教えられたこと、あるいは聞かされたことを基準にしないでください。いま心に煩悩がないだろうか、と自問してみます。心に煩悩があるという答がでたら、どんな煩悩かを追及します。あるいは煩悩がなければ、心には煩悩がないと理解します。そのように心で感じたことを基準にしてください。
煩悩があるのは、何らかの刺激がある時です。何もない時は煩悩はありません。だから何かを作らないでください。静かに、何も作らないようにサティを維持します。
……………………
サティがぼんやりしなければ変化はありません。つまり元からある空っぽです。欲望にならないので、取でも、俺、俺のでもありません。
……………………
サティが薄れれば、あれが欲しい、これが欲しいという欲望に変わります。それが自我、生まれるものです。生まれるのは欲望のある自我です。欲望があれば取があります。取すれば臨月の妊婦のように、「界」や「生」という自我を分娩しなければなりません。
手足をバタバタして大声を出すか、それとも何か他のものか、火に支配されるか。こういうのを俺、俺の、が生じたと言います。大混乱です。混乱というのはこういう時です。煩悩が生じたというのはこの時です。こうなっていなければ、まだ空があると言います。煩悩はまだ生じていません。だからここで注意するだけです。こうならないように注意すれば、ずっと空でいられます。
空にするというのは、常自覚をしっかりもつという意味です。ぼんやり何かをしないように良く注意します。この「する」という言葉は、無明、欲望、取ですること、つまり行動する主体である俺、俺の、があります。混乱と言います。だから何か問題を起す目、耳、鼻、舌などを刺激するものがあっても、必ず心の元々の状態を維持しなければなりません。つまり問題にしてはいけません。
つまり変化させないことです。管理する常自覚があれば、他に何もする必要はありません。元々あるものを維持するだけです。元々あるものとは、基本である空で、それをしっかり維持します。これは最高に適切で最高に短く、最高に賢く、最高に時間のいらない、何でも最高の方法です。
……………………
常自覚があればそのようにできます。この手で何をすることもできます。行為の主体である俺、俺のがない、ただの動作にします。正しいのは、何もする必要がないということです。自分がなければ何もする必要はありません。一方の「した仕事」は、純潔な体、純潔な心、純潔な知性、純潔な自然がしたことです。その中には自分、自分の、という考えがありません。俺、俺の、がありません。だから苦はありません。
……………………
ブッダは基本的に煩悩があると言っていない、ということを理解してください。初めにお話したように、ブッダは『煩悩は時々来る。通常心は空であり輝いている』と言っています。
……………………
(質疑応答)
7.サティがない時は煩悩でいっぱいなのではないですか。
答 : もちろんです。サティがなければ煩悩がいっぱいです。しかし自然を思い出してください。煩悩、あるいは空と呼ばれる煩悩でないものは、自然の状態では水のようなものです。自然は空であり、痴でも何でもありません。空というのは、俺、俺の、を生じさせるものでない、としましょう。これが基本です。
(強調はわたしです。引用終)教えられたこと、あるいは聞かされたことを基準にしないでください。いま心に煩悩がないだろうか、と自問してみます。心に煩悩があるという答がでたら、どんな煩悩かを追及します。あるいは煩悩がなければ、心には煩悩がないと理解します。そのように心で感じたことを基準にしてください。
煩悩があるのは、何らかの刺激がある時です。何もない時は煩悩はありません。だから何かを作らないでください。静かに、何も作らないようにサティを維持します。
……………………
サティがぼんやりしなければ変化はありません。つまり元からある空っぽです。欲望にならないので、取でも、俺、俺のでもありません。
……………………
サティが薄れれば、あれが欲しい、これが欲しいという欲望に変わります。それが自我、生まれるものです。生まれるのは欲望のある自我です。欲望があれば取があります。取すれば臨月の妊婦のように、「界」や「生」という自我を分娩しなければなりません。
手足をバタバタして大声を出すか、それとも何か他のものか、火に支配されるか。こういうのを俺、俺の、が生じたと言います。大混乱です。混乱というのはこういう時です。煩悩が生じたというのはこの時です。こうなっていなければ、まだ空があると言います。煩悩はまだ生じていません。だからここで注意するだけです。こうならないように注意すれば、ずっと空でいられます。
空にするというのは、常自覚をしっかりもつという意味です。ぼんやり何かをしないように良く注意します。この「する」という言葉は、無明、欲望、取ですること、つまり行動する主体である俺、俺の、があります。混乱と言います。だから何か問題を起す目、耳、鼻、舌などを刺激するものがあっても、必ず心の元々の状態を維持しなければなりません。つまり問題にしてはいけません。
つまり変化させないことです。管理する常自覚があれば、他に何もする必要はありません。元々あるものを維持するだけです。元々あるものとは、基本である空で、それをしっかり維持します。これは最高に適切で最高に短く、最高に賢く、最高に時間のいらない、何でも最高の方法です。
……………………
常自覚があればそのようにできます。この手で何をすることもできます。行為の主体である俺、俺のがない、ただの動作にします。正しいのは、何もする必要がないということです。自分がなければ何もする必要はありません。一方の「した仕事」は、純潔な体、純潔な心、純潔な知性、純潔な自然がしたことです。その中には自分、自分の、という考えがありません。俺、俺の、がありません。だから苦はありません。
……………………
ブッダは基本的に煩悩があると言っていない、ということを理解してください。初めにお話したように、ブッダは『煩悩は時々来る。通常心は空であり輝いている』と言っています。
……………………
(質疑応答)
7.サティがない時は煩悩でいっぱいなのではないですか。
答 : もちろんです。サティがなければ煩悩がいっぱいです。しかし自然を思い出してください。煩悩、あるいは空と呼ばれる煩悩でないものは、自然の状態では水のようなものです。自然は空であり、痴でも何でもありません。空というのは、俺、俺の、を生じさせるものでない、としましょう。これが基本です。
俗世間の成功者に、ぼんやりした人は一人もいない。彼らはよく気をつけることにおいて、周りよりずっと努力できる人達だ。 出世間で成功する(解脱する)方法も基本的に同じだとおもう。 苦を抜き解脱する方法は「よく気をつける」ことだとブッダは教えている。(スッタニパータ1035.1039) 苦聖諦の土台の上で行われる「よく気をつける努力」をサティと呼んでいる。