哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

こころの錆

スマナサーラ長老 パティパダー巻頭法話No.139「錆びるときは、人生も錆びる」より引用
◎今月の巻頭偈

(じゅ)せざるは聖典の垢
手をかけざるは家屋
(いえ)の垢
なおざりは容色の垢
修行の垢は放逸なり

 (ダンマパダ241)   (江原通子 訳)
● 今回のポイント
ものでこころの幸・不幸を計れません。
復習しないことは、学問の錆。
精進しないことは、在家の錆。
怠けは、美容と健康の錆。
放逸は、仏道の錆。
[引用終](強調処理は引用者)


「復習しないことは、学問の錆」「精進しないことは、在家の錆」「怠けは、美容と健康の錆」は常識で分かります。しかし
放逸は、仏道の錆は常識ではちょっと分からない領域です。これを理解することが、人生の一大事だとおもいます。


スマナサーラ長老の法話に学びましょう。
…こころは煩悩で汚れます。煩悩というのは、易しい言葉で言えば、感情です。感情が働くと理性を失うのです。欲、嫉妬、怒りなどの感情の衝動で人々がやっていることは、決して合理的な行為ではありません。無茶苦茶な行為です。常識も犯すのです。法律も道徳も破るのです。大失敗するのです。感情が入ると、人は無知です。感情に支配されるということは、無知に栄養を与えることです。欲、怒り、嫉妬、落ち込み、後悔、高慢などの感情は、いろいろなものを見たり聞いたり味わったり触れたり、また考えたりするとき、こころに入り込むものです。人間は目耳鼻舌身意を持ってるので、見えるもの聞こえるものなどが身体に触れて、意識になることは避けられません。仏弟子はものを知る、認識する。しかし、そのデータによって感情が起こらないようにと、こころを守るのです。仏道を歩む人にとって、こころを守ることは当たり前の修行です。データが入る瞬間に、それに気付くこと(サティ)が必要です。「サティがないことは、怠ること」は、こころを守る人の錆なのです。
[引用終]




おれは以下のように理解します。
 どれほど熱心に真面目に仕事しても、サティがないなら怠けているのです。サティがない時、すべて放逸です。「その者は死人に等しい」とブッダは教えています。不放逸はブッダの遺言でした。
あらゆる瞬間にサティを保持する不断の努力のみが、不放逸と認められる。それが不放逸の意味です。
世の常識とは明確に違いますが、よくよく考えれば、これが人生最大の真理だと理解できるとおもいます。