哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

死をごまかして不幸になる

スマナサーラ長老 パティパダー巻頭法話No.136より引用
…死の床にいる人にどんな言葉をかけますか。恐らく、「元気でがんばってください」でしょうね。それが親切な言葉でしょうか。元気でいることができれば、頼まなくても本人がやっていることでしょうし、死にかけていることに気づいている人に「がんばって下さい」と言うと、「早く死ね」という意味でしょうかね? 見舞いにくる人々がまた、一般的にすることがあります。「何か欲しいものはある? 何か食べたいものはある?」などを訊く。そんなのはあっても、今何の意味もない。わざと思い出させて欲をあおると、本人は悔しい気持ちと悲しい気持ち、遣りきれない気持ちになるでしょう。

…人は死にかけていることを知っているのに、それをごまかす。治らないことを知っているのに、早く直して下さいと言葉をかけることで、嘘を言う。また、欲しいものまで思い浮かばせて欲を煽る。「治らないのだ。死ぬのだ」と、本人は知っているのに、親戚や親しい人々は自分を囲んで、死ぬことをごまかしてヘタな芝居をやると、苦しんでいる本人には有り難うというひと言葉もかけられなくなるのです。それで、死ぬ苦しみに、親しい人々が新しい苦しみも加えてあげたことになるのです。これって親切な行為とは言いがたいのです。
[引用終]

 数年前、末期がんで担当医が匙を投げた母親に、見舞客が「あきらめちゃだめよ。元気出して早く治してね」等いろいろと励まして帰っていった。
母親は一時的に希望を取り戻し、病院の廊下を歩行器で歩く運動を始めたりした。「(病気を治すために)がんばる」と言う母に、おれはなにも言えなかった。正直見舞客に腹がたち、なにも言えない自分にも腹がたち、やりきれない気持ちになった。

 おれはあの時、母になんと言えばよかったのかと、今もおもっている。


パティパダー巻頭法話No.136より
…嘘をついて事実を捻って、情報を隠して、誤解を招いて幸福になるとは仏教は思わないのです。それは、俗世間の考えです。事実、真理を知ることで幸福になるのだというのは、仏教の考え方です。科学知識が発展する以前、あらゆる迷信で、人種差別で人々はとても苦しんでいたのです。しかし、科学者たちが自然界の真理を発見すると同時に、人々は幸福な社会を築いて来たのです。なのに、今も生きることに対して本当のことを言わないで、嘘でごまかすことが美徳だと思っているようです。

 聞いて喜んで舞い上がる事実も、まれにこの世であるが、ほとんどの真理は、聞いて驚く、恐怖感を感じる、危機感が生じるものが多いのです。だからといって、人々を騙して暗黒の世界に陥れるべきでしょうか。本当の危機感を感じ、その危機から脱出することがよいのではないでしょうか。

…世間は悟っていないし、智慧もありません。世間は無知に陥っているのです。ですから、世間の常識に従う必要はないのです。世間の常識が正しければ話は別ですが、正しくない場合は真理を語る勇気を持たないと、この世の中はよくならないのです。勇気を持って、真理を語った人々がいたおかげで、我々は今、それなりの幸福を味わって生きているのではないでしょうか。嘘で救われた人は一人もいません。

 釈尊は事実を説いて人々に強烈な恐怖感を、不安感を与えるのです。我々が日常茶飯事に感じている恐怖感、不安感は何の意味も持たない、無知な感情なのです。病気になるのが怖い、収入がなくなるのが怖い、フラれるのが不安などの恐怖感と不安感でしょう。「死ぬことなんかは絶対あり得ない」という前提で生きるから起こる、無知な感情なのです。釈尊は、人が必ず感じるべき理性に基づいた恐怖感を与えるのです。それは、事実を発見することで起こるものです。しかし、人に事実に基づいた具体的な恐怖感を与えて、無関心でいることは、釈尊はいたしません。本当の恐怖から脱出して、確実な幸福を実現する方法も教えてあげるのです。強いて言えば、幸福にさせたいからこそ、今まで隠してごまかしていた怖い事実を、明らかにしてあげるのです。

 「今すぐ努力しなさい。自己の安全な境地である、自分の島を作りなさい。理性的な人間になりなさい。心の汚れを全て捨てなさい。聖者たちの安全な境地に入りなさい」と、説いたのです。「自分の島」というのは、自分の将来の安全な境地を、自分自身の心で作るのだという意味です。自分の頼りになるのは、自分なのです。人は、自分の心のせいで不幸になるのです。汚れた心で、汚れた思考で、汚れた感情で生きていて、汚れた境地に、不幸な境地に落ちるのです。自業自得というのは、この意味です。自分の幸不幸は、自分自身の行為の結果であると理解すること、また我々は必ず死んでいく短い命であること、この世は仮の宿であること、を念頭に置いて生きることは、理性的な生き方なのです。釈尊は脅しの後で、あの老人(←引用者㊟ このエピソードに出てくる世人)に幸福になる方法を教えてあげたのです。恐怖感に打ち勝つ方法を教えたのです。

 要するに、「あなたは死にかけている。後戻りできない。しっかりがんばりなさい」という意味ですが、仏教の「がんばりなさい」は、只の無意味な表現ではありません。とても具体的な表現なのです。このようにがんばりなさい、とその方法を説くのです。
[引用終]

このようにがんばりなさい、とその方法を説くのです。
→実践方法は慈悲の瞑想ヴィパッサナー冥想

ヴィパッサナー冥想は「気づき」の実践。世間の常識では実行できない。死はあの世へのお引越しという妄想とは共存しえないからだ。
五感は悪魔の垂らす釣り針思考はゴミと学ばなければ、なんのためにやるのかわからず、始める気さえ起こせない。