ゴータマ・シッダルタ(後の釈尊)は釈迦族の王子として生まれたが、29歳の時、すべてを捨てて出家した。
以来、ウルベーラの森ですさまじい断食や苦行の生活を続けること六年におよび、骨と皮だけに痩せ衰えたが、結果は悲惨であった。
苦行は、結局、道を
六年の歳月は、空しく過ぎた。
(現代語仏教聖典 釈尊編 2章1節「心のたたかい」より)
常人なら、ここでおもいきり落ちこんで後悔するところだが、シッダルタは、そんなくだらない後悔に時間を費やすことなく、すぐ次の行動にうつる。これ以上ない苦痛に耐え続けた6年が徒労だとわかった直後にだよ…おれは心底から尊敬する。
シッダルタはすこし体力が回復すると、菩提樹下に坐し、不退転の決意をする。
私は、真実道を
(同)
ところで、これも苦行じゃないの?
もちろん、これは苦行ではない。
「マハーシサヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法.pdf」→http://gotami.txt-nifty.com/mahasi_pa_japan.pdf
に次のように注意されている。
ある人は苦行という意味を釈尊の意向と反対に受け取り説法しています。彼らによると骨を惜しまず修行することを苦行といっています。それだと釈尊の意向と反対になってしまいます。釈尊は身体と命を惜しまずに定と智慧の修行を激しく努力すべきだと勧めています。…
…持戒、定、智慧を生じさせる実践ならば(anatthasamhita 無益ではなくatthasamhita 利益に関係する実践なので)避けるべき苦行ではない。実践すべき中道だとしっかりと覚えておいてください。持戒、定、智慧などが何も生じずにただ疲れるだけの行為は苦行と呼びます。(Q&A17より引用、赤字強調はわたし)
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(過去記事増補編集再録)