gacchanto vaa 歩いているときはgacchamøti 歩いているとpajaanaati 知る。歩いているときは歩いていると知らなければなりません。これだけです。歩いているときに歩いていると知ることが難しいでしょうか?難しくありません?難しくないのでこれをある人は法ではないと思っています。これは仏説です。仏説でなければ全部取り除くでしょう。仏説であっても「これは違う、それは違う。」といって更に付け加えたいのでしょう。何と同じかといえば王に点を付けた編集者のようなものです。直すところが無いので王に点を付けて玉に直したそうです。その様にgacchanto vaa 歩いているときに歩いていると念じると足や身体のイメージになってそれは勝儀諦ではないと修正したいのです。それは王に点を打つようなものです。これは仏説です。修正する必要はありません。勝儀諦である名色などを考察しながら念じさせたいならば、釈尊は違った形で説くでしょう。
例えばgacchanto vaa naamaruupanti pajaanaati
gacchanto vaa 歩いているときは
naamaruupanti 名色をpajaanaati 知ると、この様に説くでしょう。
(The Dhamma talk of Ariyaavaasa sutta)
マハーシサヤドーと現代のヴィパッサナー瞑想法pdf 質問15より(引用文中のリンクと強調の付加はわたしです。原文にはありません)
例えばgacchanto vaa naamaruupanti pajaanaati
gacchanto vaa 歩いているときは
naamaruupanti 名色をpajaanaati 知ると、この様に説くでしょう。
(The Dhamma talk of Ariyaavaasa sutta)
この馬鹿な編集者の比喩を見て、おもったことがある。 大乗仏教徒は「王に点を付けて玉にする」類の説を大量に作った。後から生まれた大乗仏教徒はこの玉にさらにいくつも点を付け完全に意味不明にしたと。その大量の薄気味悪いごみでブッダの教えを覆い尽して、人目に触れないようにしたと。