哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

迷信はこれからもなくならない。でも言いつづける。

お守りは不安の泉~理性を育むと迷信は消える~スマナサーラ長老法話より
…人が迷信に頼ることは、これからもなくならないと思います。皆、将来は不安です。これから先、どうなるのかわからないのです。受験しても合格できるか、商売しても繁盛するか、今健康だからといっていつ脳出血で倒れるか、わからなくて心配なのです。このように、余計に自分のことや家族のことを心配すると、不安、恐怖感で滅入ってしまうのです。そうなると、お犬さま、蛙、フクロウ、狐、猿……誰でもいいから祈りたくなるのです。頼りたくなるのです。「祈り」は、人の不安、弱み、非合理性の表れなのです。

 しかし、こころの不安は完全に消してしまう必要があるのです。それには智恵を開発することです。先がわからなくて不安になり、迷信に走るという段取りは、物事を観察できない無知な人の生き方です。具体的に自分の置かれている状況を観る人は、迷信に走らないで、自分で努力するのです。それは智恵の働きです。すべてのものごとに対してありのままに観られる智恵を開発すれば、こころの不安は完全に消え去るのです。
 完全な智恵というのは
   「一切は無常である」 (Sabbe sankhârâ aniccâ)
   「一切は苦である」 (Sabbe sankhârâ dukkhâ)
   「ものごとには実体はない」 (Sabbe dhammâ anattâ)
 という真理を発見することなのです。
それには、ものごとを客観的に観察するというヴィパッサナー手法以外はないのです。また、人生は不完全で不満に満ちているものです。渇愛は苦しみの生みの親です。渇愛から離れると、平安が訪れる。そのためには、八正道を実践しなくてはいけない。この四聖諦に目覚めると、こころの不安は完全に消えるのです。
(以上引用終。文中の強調付加はわたしです。原文にはありません)

しかし…現状確認しておこう。
 人類がみずからの長い歴史の中で、現象を現実的に観察し論理的に思考し理性的に対応するのが正しいと知ったのは、ほんのついさっきからのことで、それまではずっと何万年も、それとは正反対の怪奇な生き方をしてきた。
何万年もかけて骨にまで染み付いた感情的な神秘癖からきれいに抜け切る人は、今でもめったにいない。
つまり「現実的に観察し論理的に思考し理性的に対応する」が単なる流行のパフォーマンス以上のものになったことは、かって一度もない。
大多数の人々は逆に、何万年もの間苛めぬかれた古い病癖に再び身をまかせる時、あたかも故郷に帰ったような安息を感じ、これこそ「ほんとの自分」だと他愛もなく錯覚する。
今も大半の人たちは、そういうグロテスクな生き方をしている。

経典の言葉
Bahum ve saranam yanti - pabbatâni vanâni ca:
Ârâma rukkha cetyâni - manussâ bhaya tajjitâ
恐怖に追われている人々は、山々、林、聖地、樹木、霊場など多くのものに頼る。
Ne'tam kho saranam khemam - ne'tam saranam uttamam;
Ne'tam sarana mâgamma - sabba dukkhâ pamuccati.
しかしこれらは、安らぎを得られる頼りではない。
優れているものではないこれらに頼っても、すべての苦しみから解脱することはできない。
Yo ca buddhañca dhammañca - sanghañ ca saranamgato;
Cattâri ariya saccâni - sammappaññâyapassati.
人が、仏法僧に帰依して正しい智恵で四聖諦を観察する。
Dukkham dukkha samuppâdam - dukkhassa ca atikkamam;
Ariyam atthangikam maggam - dukkhûpasama gâminam.
すなわち、苦しみ、苦しみの原因、苦しみの終滅、苦の終滅に導く八正道。
Etam kho saranam khemam - etam sarana muttamam;
Etam sarana mâgamma - sabba dukkhâ pamuccati.
これこそ、平安をもたらす頼りである。これこそ、優れた頼りである。(Dhammapada. 188-192)

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四聖諦
八正道


(過去記事増補編集再録)