哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

わかってもらえないだろうけど一切皆苦 苦聖諦


 一切皆苦、人生は苦であるという事実は、人々にとってもっとも聞きたくない、知りたくもない究極的に暗い嫌なメッセージだ。
(その証拠に昔も今も、ほとんどの人がこの事実をうっかり直視してダメージをうけないようにけっこう注意して生きている)

では釈尊はなぜ、よりにもよって、これに「聖なる真理」(苦聖諦)とあえて「聖」の概念をつけたか。


この一切皆苦の事実にのみ、人間を真に根底から救う力があるからだとおもう。
幼稚な子供のように一時的な慰めや気晴らしの繰りかえしに、もはや満足できなくなった人間は、この一切皆苦に正対して救われるほかに道はない。
この唯一の可能な脱出路のおかげで、人は真の絶望をまぬがれている。


だから、たんなる「苦という事実」ではなく「苦という聖なる事実」とよばれているのだとおもう。


一切皆苦が事実そのものだと気づいて、それをストレートに言ってのけた釈尊という人はほんとにすごい。他にこういう人は誰もいません。
事実なんだからそれを子供みたいに嫌だとか言ってもしょうがない。事実は素直に認める以外ないし、それが結局一番楽な道なんだが、なかなかね~。人間って自分では賢いつもりだけど、ほんとは笑っちゃうくらい馬鹿だから(おれは自分の馬鹿ぶりに毎日笑い泣き)…

 おれはある時、ほとんどの人が昔も今も明らかな事実だと信じている「人生楽ありゃ苦もあるさ」は事実じゃないと気づいた。気づいたけど、昔の古い癖はなかなか抜けない。脱出は容易なことではありません。

一切皆苦を100パー実感できたら、その人はすでに悟ってるわけで。おれは「これは夢だ」とおもいながらまだ夢の中でうろうろしている状態だ。実感にはほど遠い。
ほとんどの人の『実感』は、昔も今もこれからも「♪人生楽ありゃ苦もあるさ」だろう。これは人類がものすごく年季を入れて捏造した命がけの共同幻想だからね。簡単にこの幻夢から目覚める人はいないよ。

 一切皆苦という事実は実際ほとんど理解されてない。

その理由を別の角度からも考えてみる。

人間が生きるために通常の状態では避けることのできない迷妄が厳然と存在することに気づく人がほとんどいない。だから「人生楽ありゃ苦もあるさ」が事実に反するとは夢にもおもえない。これが最大の理由だとおもう。


もうひとつの理由は、問題解決法としての「空気を読む」能力について。
この能力は「必ず老いて必ず病気になって必ず死ぬ」問題にたいしてはまったく無力だ。

いわゆる「空気を読む」ことに関しては、ごく普通の人の多くが驚くべき高いレベルに達している。またそのことをはっきり自覚してもいる。彼らは歴史上の偉人たちをこの点において時に凌駕するほどの能力を発揮することさえある。

当然、彼らはあらゆる問題の解決に常にこの得意の能力を使おうとする。

昔のことで都合よく忘れているが、彼らはかって「必ず老いて必ず病気になって必ず死ぬ」問題にたいしてこの能力を使ったのだ。



 おれは、昔から考え続けている疑問がある。
「自分を王様だとか神様だとか事実誤認して幸福だとおもい込んでいる精神病院の患者は、本当に幸福か」という疑問が。

大多数の人は「本人が幸福を感じてるんだから幸福に決まってる。他人が気の毒がっても、本人は自分が精神病だと気づいてないから関係ない」とおもうだろう。
自分が幸せだと感じてればそれだけでオッケーってことだ。おれはもう何十年も考え続けてるけどまだはっきり結論は出ていない。
でも非常に多くの人が結局そう感じているんだとおもう。
だから将来、副作用のない麻薬が開発されて「幸福薬」として売りだされたら飛びつくことになる。それさえ飲んでれば幸福ないい人生ということになるわけだから。

 苦聖諦は、苦しみ「が」救ってくれるから苦聖諦と呼ばれているんだとおもう。人生楽ありゃ苦もあるさでは、そこそこいい人生だとおもってるわけで、そんな人には仏教の入口扉さえ開かないから、ブッダに出会えるわけがない。

おれは以前「幸福か不幸かなんて人生とは関係ない」と書いた。仏教的幸福はそういう本人の思い込みだけで決まるような「幸福」「不幸」とは何の関係もないという意味だ。

 おれは釈尊の教えをほんの一部でも知ることができたのは、自分の幸運だとおもっている。

(過去記事統合編集再録)


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