哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

人生の目的は

人生の目的は「存在の意味」を明らめることにあります。
しかし、大多数の人々が存在の何が問題なのかさえ自覚的には知らない。
実は知っているが、自覚的には知らないという厄介な状態です。

そこで実は知っていることに気づくために、人間は様々迷いながら、1欲の奴隷(現世快楽主義)→2相対主義→3道具主義→4自我の終わり・解脱(存在の意味を明らめる)という順序で成長することになる。


1欲の奴隷(現世快楽主義)

休みなく生成を繰り返す自然の圧倒的な豊饒性に魅惑され、その大きな謎を謎のまま賛美し受け入れるだけなら、獣だってそうしているではないですか。
しかも、人間のように言葉だけでなく全身で。
獣にとっては、それは当然です。
それ以外の在り様がないのですから。

しかし、人間にとっては、それが存在の意味を覆い隠すベールになっていることに、人間は早く気づくべきです。

猿が人間になり、人間が宇宙人になり、やがて神にさえなるが、それは存在の意味ではない。
どうして、そんな目先が変わるだけに過ぎないことが存在の意味であろうか。

だからこそ、仏教では、これを六道輪廻と呼び、一刻も早く抜けだすべき迷いの世界だと説いているのです。

釈尊入滅後、やがて宗教改革が起こり、在家信者中心の大乗仏教ができた。

教科書的な解説本は、例外なく「菩薩」等を賞揚し、すばらしい改革であり発展であると断定している。

本当に、そうなのか?

在家信者だけを相手にすれば、「存在の意味」に直結する教えや修行は、しだいに忘れられていくほかはない。
かれらの多くは、それを問題としてさえ認知していないからだ。

もし、一切皆苦や不浄観をごまかしなく説いたら、怒って聞かないだろう。

すると、(途中は、はしょる)最終的にどうなるか?

釈尊の教えは、徐々に現世快楽主義的なものにすりかえられ、やがて、日々面白おかしく暮らすための処世術と区別できなくなる日が来る。

そして、大乗仏教の名は残り、釈尊の教えは消滅する。



西洋社会でも同様の現象が起きる。

キリスト教は、ルターなどの改革運動で一般信徒主導のプロテスタントが生まれた。

教科書的知識だと、その当時のカトリックは全否定してよいことになっている。

マルティンルターは、キリスト教に対して非の打ちどころなき正しい改革を成し遂げたと判定されている。

本当に、そうか?

それとは別に、やはり一般信徒主導のイスラム教も生まれた。

いずれも非常に多くの分派があるが、最終的に主流派は現世主義に収斂するだろう。
(まだ今のところ、その反対の現象が多く起きているとしてもだ。)

それは、一般信徒主導の集団である限り、避けられない結果だ。



 かつて見た太陽の記憶が、盲人に手探りをつづけさせている。
人間は、この盲人にたとえるべき特殊な運命を担っているのです。


そのように、人間を駆り立てて止まないのが存在の意味です。

 カントはいっています、人間の理性は認識について特殊な運命を担っている、すなわち理性が避けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である、と。
これは存在の意味にこそ当てはまる言葉です。

二通りの道があります。

1・
理性がたぶん答えられない問題なのだから、無視して、悩むのを止める。

2・
わたしたちが避けることのできない運命として担っているからには、何か重大な秘密の意義があるに違いないのだから、あくまで打開の道を模索しつづける。

存在の意味を無視し続けることは、人間にはできないので、1を選ぶと破滅します。


我…善く導くものの、人を善道に導くが如し。之を聞いて行かざるは、導くものの過に非ず。(仏遺教経)



聴衆の質問に冷徹に回答するリチャード・ドーキンス

老婆心で付け加えますが、リチャード・ドーキンスキリスト教信者を導いているのであって、その逆ではありません。その試みが失敗しても、それは彼の過ではないとおもいます。
ただし、相対主義の鍵では一神教の閉じられた扉を開放することはできないでしょう。鍵がちっぽけすぎて合わないのです。
ドーキンスは仏教に対する深い認識を持っており、けして単なる相対主義者ではないですが、このビデオの応じ方に限って言えば、相対主義の域を出ていないとおもいます。おれは相対主義を非常に優れた思想だと認めていますが、キリスト教のパッションにはちょっと太刀打ちできないとおもいます。つまり自己防衛はできるが相手を説得することは難しい。自分もずっと宙に浮いたままです。それでも釈尊の教えを除けば、理性的人間が危険を侵さずに持ちうる最良の思想だとおもいます。

道具主義
※「道具主義
「真理とは、人間の利益になる思いつきのことだ」という立場のこと。

相対主義では無我に到達できない。そこで道具主義の出番となる。

道具主義のアイデアは、プラスのかたちにもマイナスのかたちにも現れてきた。
至高のかたちは、数千年前ブッダの「筏の喩え」としてすでに現れている。いまだにこれを超える現われはない。この道だけが無我につながっている。
マイナスの方向の現れは様々だが概してフランクフルト学派が批判した「道具的理性」になり自己欺瞞に退廃する。
たとえば以前060809の記事で
「自分が何故そう考えるのか、何故そう望むのか、何故そう感じるのかと、自分の心の分析をしすぎないほうが良い。
あまりこれをやりすぎると、いつの間にか、すぐに分析できる考えや望みや感じしか、心に浮かばなくなる。
世間で頭脳明晰、論旨明瞭と評判の人の中に、この病に罹って膏肓に入るのを見ることがある。」
と書いた。
抑圧することで安直に自分の感情や衝動を支配したつもりになる本末転倒した退廃理性(道具的理性)の姿だ。

※「道具的理性」については
 『理性は、本来的には人間が目指すものについて、問いかけたり批判したり確認したりする精神のはず。しかし、「道具的理性」は、いわば自然を支配しようとするときの手段でしかない。人類は、理性によって「外なる自然」の支配はできたが、同時に「内なる自然」、つまり人間の感情とか衝動とか、そういうものまで支配するようになってしまった。
 そして、その支配する力がどんどん強くなると、支配することそのものが目的となった社会が築かれ、人間を画一的に管理してしまう。そのとき、「内なる自然」と離れてしまった自我は、自分の生きることの意味や目的を見失ってしまって、ただそこに存在するだけのものに変わってしまう。
 自然を支配することで主体性を確立し、文明化が進んだように見えて、実はそのことで、人間は非人間化され、文明は野蛮化した。ナチスの野蛮な行いは、この主張の現実となったものであると。』
は ま ぐ り の 数 学から引用させていただきました)

ではプラスマイナスの分れ目はなにか。理性が退廃する原因はなにか。
原因はただ一つ、「生きんとする盲目的意志」を自分自身だと錯覚することだ。
すると、理性は欲望の下僕になり、最低の行為をも理論的に正当化する道具になり下る。
道具主義がマイナスに現れるのは、心に自分がコントロールされるときだ。反対に、自分が心をコントロールするときは、同じ道具主義がプラスに現れる。

自分の心を自分自身だとおもうことは、あらゆる災いの元凶だ。
この主張は、大多数の人々の本能的願望を根底から否定するので、かって一度もまともに理解されたことはない。昔は忌まわしいく曲解され、今は単純に無視されている。(世の平和のためには、曲解より無視のほうがましだ。無視はその個人だけの悲惨で済むが、曲解は社会全体を悲惨に巻きこむから)
心とは「生きんとする盲目的意志」だ、とおれはおもっています。これに自分を一体化させた人間は、いくら知能高く能力優秀でも本質的に獣です。ナチスの蛮行は知能高く能力優秀な獣がなにをなすかを世界に示しました。
「生きんとする盲目的意志」に引きずりまわされているだけなのに、欲ボケして自分をスーパーマンだと思いこまされて張り切ってる人間は今もいっぱいいます。
ナチスは確かに酷かったけど過去の話だ、あんな酷いことはもう二度と起きない」とは今もこれからもぜんぜん言えないところに問題の深刻さがあるとおもいます。
同じ原因が昔以上の勢いで今作られれば、昔以上に酷い結果がこの先に現れるのは避けられないでしょう。ナチスより酷い結果って何でしょう。もう人間の想像力を超えてるとおもいます。

4自我の終わり・解脱(存在の意味を明らめる)

アルボムッレ・スマナサーラ著「ブッダの教え1日1話」8/10より引用)
正解は、たったひとつです。
それを発見することのために、主観という自分だけに限ったカラを破らなくてはならないのです。
(引用終)

これが相対主義のまどろみを克服できる唯一の道だ。

相対主義は自分を捨てずにたどり着ける最高の境地だ。

しかし相対主義では、生老病死する自分を救えない。

さらなる高みに一歩を踏み出すには、ほんとうに自分を捨てるしかない。

「自分」はたんなる言葉に過ぎなかった!とはっきり気づくだけでOKなんだが、数億年来生命にこびり付いた癖が邪魔しまくるから、これがなかなか…

苦聖諦を得れば、世界のよい法もすべて得る

苦聖諦は世界に比類のない尊い宝物です。仏教の正門です。

「苦諦」は仏教の入口というだけではありません。
「苦諦」さえ得れば、「集諦」「滅諦」「道諦」も必ず得ます。
ブッダが「苦が見える人は、当然苦が生じる原因が見え、当然苦の消滅が見え、当然苦の消滅に至る道が見える」と明言しているからです。

ブッダが一番に苦諦を説いたのにも深い意味があります。
次に集諦、その次に滅諦、最後に道諦という「順序を正しく記憶しなさい」と、ブッダはわざわざ注意しているからです。

世界のどんなよい法もすべて四聖諦のなかにふくまれてしまいます。(象の足跡のたとえ



以下は老婆心。
自分を捨てる道は最善だが、中途半端にやるとたちまち最悪になるので要注意。

中途半端にやった悲惨な結果は、この前の戦時中の記録を見ればよくわかる。国中が利己心を捨てよ、自分を捨てよと絶叫し続けていた。
自分を捨て切れない大多数の人達(含宗教家)は、国家を自分とした。滅私奉公、一死奉公。最悪だ。
中途半端に自分を捨てる人間は、ガリガリの利己主義者より、はるかに社会に害をなす。
今でも、所属する各種利益集団に自分を膨張させてグループボケする有様を、私心を捨てると美詐称する人は非常に多い。


(過去記事総合編集再録)