不治の病が奇跡的に治癒しても真の治癒ではない。社会に適応して大富豪になっても真の適応ではない。
人間は誰でも結局死ぬから、このような治癒、適応は空しい。
けっして揺らぐことのない心の平安を得ることが、真の治癒・真の適応だとおもう。
傍らに立って<神の子なる>スブラフマンは尊師に対して詩をもって話しかけた。
「この心は常にあわてふためいている。
この心は常におびえている。…いまだ起こらない未来の事柄についても、またすでに起こった事柄についても。
もしもおびえないでおられるのなら、…お尋ねいたします。 それを私に説いてください。」と。
[尊師いわく、…]
「さとりに至る実践の修養のほかに、
感官を制御することのほかに、
一切を捨て去ることのほかに、
生けるものどもの平安を、われは認めない。」
(ブッダ 神々との対話 中村 元訳 2-2-7より)
選択の余地はまったく無い。
今逃げても、繰り返される苦しみに厭きて、結局やることになる。
やらないという選択肢は無いってことだ。
失敗したらどうしようと悩むなんて意味ない。
だって、やるしかないんだから。
じゃあ、今すぐ始めて少しでも早く始末をつけるのが一番楽ってことだ。
[参考過去記事]
「アーナパーナ・サティは、大変やさしい瞑想法」→http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzU2NTM0NzEwLmh0bWw-
(過去記事増補編集再録)
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