哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

アーナーパーナサティサマーディ(呼吸の観察)

 ブッダのことば
HP『ターン・プッタタート』「悟る前に最も多くいたヴィハーラダンマ」
祇園精舎にて(相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻399頁1324項)
 比丘のみなさん。体の揺れ、あるいは心の動揺も、サマーディに励んでたくさんすれば、その威力によって、それらは生じることができません。比丘は当然そのサマーディを、重荷でなく、難しくなく、大変でなく得ることができます。

 比丘のみなさん。体の揺れや心の揺れは、どのサマーディに励んでたくさんすれば、その威力で生じないのでしょうか。比丘のみなさん。体の揺れや心の揺れは、アーナーパーナサティサマーディに励んでたくさんすれば、その威力で当然生じることができません。

 比丘のみなさん。人はどのようにアーナーパーナサティサマーディに励めば、体の揺れや心の揺れが生じないでしょうか。

 比丘のみなさん。この場合の比丘は森、あるいは木の根元、あるいは空き家に行っても、足を組んで座り、体を真っ直ぐに維持し、サティを現前に据えます。その比丘は息を吐いてもサティがあり、息を吸ってもサティがあります。

長く息を吐いたら、息を長く吐いたとハッキリと知り、長く息を吸ったら、長く息を吸ったとハッキリと知ります。
短く息を吐いたら、短く息を吐いたとハッキリと知り、短く息を吸ったら、短く息を吸ったとハッキリと知ります。
彼は当然「すべての体を知って息を吐く」、「すべての体を知って息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
彼は当然「カーヤサンカーラ(体を作るもの。身行。この場合は特に呼吸のこと)を静めて息を吐く」、「カーヤサンカーラを鎮めて息を吸う」という原則を心に留めて練習をし、

 彼は当然「ピーティを知り尽して息を吐く」、「ピーティを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習をし、
 彼は当然「スッカを知り尽して息を吐く」「スッカを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
 彼は当然「チッタサンカーラを知り尽して息を吐く」「チッタサンカーラを知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
 彼は当然「チッタサンカーラを鎮めて息を吐く」「チッタサンカーラを鎮めて息を吸う」と心して練習し、

 彼は当然「心を知り尽して息を吐く」「心を知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
 彼は当然「心を喜ばせて息を吐く」「心を喜ばせて息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
 彼は当然「心を安定せて息を吐く」「心を安定させて息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
 彼は当然「心を解放して息を吐く」「心を解放して息を吸う」という原則を心に留めて練習し、

 彼は当然「無常を見て息を吐く」「無常が見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
 彼は当然「薄れるダンマを見て息を吐く」「薄れるダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
 彼は当然「消滅であるダンマを見て息を吐く」「消滅であるダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
 彼は当然「返却するダンマを見て息を吐く」「返却するダンマを見て息を吸う」という原則を心に留めて練習し、
 彼は当然「心を知り尽して息を吐く」「心を知り尽して息を吸う」という原則を心に留めて、このように練習します。

 比丘のみなさん。人がこのようにアーナーパーナサティサマーディに励めば、体の揺れ、心の揺れは当然あり得ません。

 比丘のみなさん。私も同じです。私が悟る前、まだボーディサッタだった時、当然ほとんどこのヴィハーラダンマ、つまりアーナーパーナサティサマーディにいました。私が、ほとんどこのダンマヴィハーラにいると、体も辛くなく、目も大変でなく、そして取がないので、心も漏から脱しました。

 アーナーパーナサティ(呼吸の観察)は坐禅堂のようなそれらしい場所に行って足を組んで座り、体を真っ直ぐに維持しないとできないのかというと、そんなことはない。
形式を墨守して回数を減らすよりも、ほんの少しの機会も疎かにせずに呼吸を意識しようとする気力が大切だ。
たとえば風邪などの病気で起き上がることができない日、寝たままで呼吸にサティを入れれば大変効果的で良い経験になる(←おれみたいなのんき人間の場合だけかも。少し追詰められてる感あるほうが調子出る)。