哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

すべてがうまくいったとしても、それはあなたにとって何ですか。

すべてがうまくいったとしても、それはあなたにとって何ですか。

最終的に歳をとって、一人寂しくすべてを捨てて、この世を去っていくのではないですか。
限りない心配ごとがあって苦しみながら生きていても、物事がうまくいって楽に生きていっても、特別な意味がありますか。
どちらにしても空しいでしょう。
それを超越した道を探してみましょう。
A・スマナサーラ長老「悩み、苦しみ」を諦められるかより(強調処理はわたしです)

おれはこのブログを始めた2006年7月30日の記事「今日から書き始めます。」
「泣いて暮らしても一生。笑って暮らしても一生。同じ一生なら笑って暮らそう」
とみんながいう。
それはいい。
おれだってそうしている。
だけどそれは、人生とは関係ない。
たんなる処世術に過ぎない。
処世術は世渡りのテクニックであって、人生とはなんの関係もないことだ。
この一点を、はっきりさせておきたい。
この、人生に最も必要な感受性がまるで欠落している人のなんと多いことか。
こんな人々と人生についてなんの話ができようか。
死ぬ日まで、ずっと面白おかしく生きられても、そうでなくても、なにほどの違いがあるというのか。
大多数の人々は、そこに天地の差を感じているのだが、それは気の迷いだ。
と書いた。

人生の核心は世間の幸不幸と関係ないという、この感覚がないと仏法は分からないとおもう。

上述のスマナサーラ長老の説法はブッダの金言で締められている。
私には子供がいる、私には財産がある、と愚かものは悩み苦しむ。
自分に自分すらないのに、なにが子供か、なにが財産か。

(Dhammapada-62)