「宇宙は不滅の大生命で、私はそこから絶え間なく出たり入ったりしている無数の小生命のひとつである。死とは大生命に帰っていくことであり、また戻ってこれるのだから、恐れることはない」
非常に多くの人たちが、これを釈尊の悟りだとおもっている。
あほらしこっちゃ
これこそが迷いなのだ。輪廻なのだ。苦そのものなのだ。
そして、そうとはっきり知ることが、悟りに至る唯一の入口だ。
皆、はなっからバッチリ正反対向いてるもんやから、進めば進むだけ能率良く真実から離れてく破目になる。
死を忘れた人たちが恐ろしい罪を犯す。死を忘れた人たちこそが、平気で殺し合いをする。
「人類は、自分たちの死を忘れる必要に迫られて文化をつくった」という意味のことを言った哲学者がいた。釈尊の教え以外の全ての宗教も、そういう意味では文化に過ぎない。天国で永遠の命を得るとか梵我一如だとかは結局「わたしたちは死んでも生きているんだよね」と言いあって、死を忘れようとする文化的営みだ。
向き変えろヤ!回れ右ヤ!
しっかりせえよ!
これで「悟り」なら、インドの大衆は聖者だらけだわ。
もう一回ゆーけど、
あほらしこっちゃ
(これは過去記事080323「まぎゃく」の増補再録です)
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