「我思う、故に我あり」と無我の関係
「我思う、故に我あり」
あえて一切を疑っても、その疑う自分が存在することだけは疑いようがないとデカルトは主張した。
総じてこのように理解されているが、その一般的解釈は間違いだ。
この人間にとって避けにくい間違いは、ひとつの事実を証明している。
ブッダが発見した無我という真理は、生物一般の宿命的盲点になっており、ほとんど理解し難いという事実を。
因みに、「我思う、故に我あり」のデカルトその人は無我の真理にあと一歩まで近づいていた、とおれはおもう。
「我思う、故に我あり」と無我では真逆だろと一見おもえるが、実は意外に近い関係だ。ブッダは実体はないといい、デカルトは「思う」だけしかないといった、近いでしょ。
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