哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

勤め先をやめる基準

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(仕事がサティを維持できないほどきつい拘束になれば、その時点で仕事を辞める。2年前に勤め先を辞めたほんとの理由も実はそういうことだった)

 先月中頃から来月末まで、午後の4時間バイトをすることにした。
作業はプリント回路板をマガジンから抜き取って箱に6枚並べて、その上にクッション板を乗せ(7)また回路板を並べ、の単純な繰り返し。

このルーティン動作に合わせて7まで数える簡略なヴィパッサナー実践を試みている。
実際の今・此処の動きと繋がっているので、数をかぞえ続けても呪文に堕落することはない。

たまに話しかけられると集中が途切れてしまう。他人から見れば、脇目もふらず作業に没頭している姿にほかならないので、職場受けは良い。

このくらいの軽い拘束がおれには必要でちょうど具合が良い。家で一日自由だと、漫然とテレビ見たりして、ろくにヴィパッサナー実践ができていないのだ。

とはいえ、未熟なおれには、拘束の助があってさえ4時間の安定的持続が容易ではない。
なんとか続けたい。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在(今・此処)」に気づき続けること

[121023追記]
ちょっと安定してきたので欲が出て、もっとましなヴィパッサナーにかえてみたりする。「右手伸びます。(プリント回路板を)掴みます。(マガジンから回路板を)引き抜きます。右手曲がります。左手曲がります。(右手から左手に)持ちかえます。左手伸びます。(箱の中に)置きます。放します」等、細かく実況中継。予想通りあまり続かない。とっとと7まで数えるヴィパッサナーに戻す。不十分でも続けることがなにより大事。

[121111追記]
午後4Hパートが、明日から8:15~17:15のフルタイムになる。諸事情から断れない。担当作業の種類が増えて、おれ程度だと簡略なヴィパッサナーでも実行が難しくなる。

社会で真面目に仕事さえしていれば、それも仏道修行だという説はほとんどまやかしだ。たとえ社会の荒波を抜き手を切って泳ごうと、サティがなければ死んでいる。
[131124追記]
↑これに関連するスマナサーラ長老の説法「Q不放逸ということば」がありました。ブッダ独自の用語「不放逸」とは日々の仕事を一生懸命やる事ではない。不断のサティのことだと。→https://docs.google.com/file/d/0B59ftD8hZk1UdTdWNkx4UnQtYnc/edit?usp=sharing
(リンクをクリック→ダウンロードをクリック→プログラムで開くをクリック→OKをクリック、で説法が始まります)[131124追記終]

優先順位の逆転が徒死を引き起こす。全ての全てにサティを優先させるのが智慧の証だ。
仕事がサティを維持できないほどきつい拘束になれば、その時点で辞めて、人生の優先順位を復旧する。[121111追記終]

サティ
「瞬間の現在(今・此処)」に気づいていること。
ウィキペディア サティ (仏教)」→
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29

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