食べ物をどう見るべきか
釈尊の説法に、
ある夫婦が可愛い一人息子と共に荒野の道を行くというのがある。これは人生のたとえ。
途中で手持ちの食料が尽き「三人とも死んではならない」と考えて、一人息子を殺して食べ、荒野の残りを越え渡ることができたと。
この世の食べ物は、まさしくこの一人息子のように見るべきだと。食べ物は戯れ、嗜好、愛着、容色などのために食べるべきではなく、ただ荒野を越え渡るために食べるべきものだと。
愚かな無駄食いばかりしているおれには、この上なき厳しい教えだが、これはまだ説法の出だしに過ぎない。
最終的に『識別作用という食べ物』をどう見るべきかに話が及ぶのだ。
真実その通りだとおもう他ない明晰深遠な説法だ。
おれは話のしょっぱなでつまずいており、先に進めない。
サンユッタ・ニカーヤ「子の肉」より
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