哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

メモ


社会の習慣は常時ONの定力装置で、それに常にそれ以上の力で抵抗していないと、加わる影響はどんどん大きくなる。日常人はごく若い時以外はほとんど抵抗しないから、歳をとるにしたがってその受ける影響は蓄積され、ついにはまったく社会習慣の権化に変えられてしまう。

定力装置 一定の力を加え続ける事のできる装置

犬を飼っている。その犬を見ていて。昨日餌を食べ草の匂いを嗅ぎながら散歩をし排便し寝た。今日も同じことをしている。明日もそうだろう。そして毎日同じことの繰り返しのようで実はすこしづつ壊れていっている。やがて病気になり死んでしまう。人間も同じだ。おれもこの犬と少しも変わらない。

人は生きている限り困難な事態に絶え間なく直面する。
だから様々な苦労に積極的に立ち向かい人生の経験を豊富にしていけば、次第に新たな困難に順当な対応がとれるようになる。確かにそれは事実には違いない。しかし、これが人生だと言われ続けることに、おれは根本的な疑問を感じざるを得ない。それは犬だってしてることだ、犬なりに全力で。

インド。繰り返し生を受けることは難儀なことだというのは熟成した表現だ。大人の言葉だ。日本人は思想的に子供だからこのインドの大人の言葉はよく分からないのだ。日本人は輪廻転生してでもとにかく生き続けることを望んでいる。

時間とは何か?時間があるから事象の変化が起きるのではない。事象の変化があるからそれに対応するために時間観念ができた。実際にあるのは時間ではない、絶えざる事象の変化だけだ。時間とは何かという問いは、
無常とは何か
という問いに答えることを要請する。無常が分かれば時間も分かるだろう。無常を言葉で理解した気になっても、それは無常を時間観念で定義してるから、分かったうちに入らない。


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