ウィキペディアをみると
「彼はクシナガラのバラモンであった。遍歴行者で、四ヴェーダに通じ、聡明多智で五神通を得て、非想非非想定を得ていた。」
「彼は、釈迦仏が近々、涅槃に入られんことを聞き、最後の布教の旅でクシナガラに来訪した仏と会い、自身が疑問とするところを釈迦仏に質した。時に彼は120歳であったと伝えられる。」
彼が入滅直前の釈尊にした質問は、当時名の通った修行集団の教祖を6名ほどあげ、ほんとうのところ誰がどの程度悟っているんでしょうか。教えてくださいというものだった。
釈尊は言下に
「止めよ、須跋陀よ。…無益な詮索を停めよ」
と退けた。
それも当然で、須跋陀自身、明日死んでもおかしくない歳なのに、ものすごくどうでもいいことに囚われている。
「他人がなにをなしたか、なさなかったかを見るな」と。この種の興味は捨てるのが当然だと、はっきり感じられない人が今でも多いとおもう。
「自分がなにをなしたか、なさなかったかだけを見よ」と。これが非常に重要なポイントだ。
常に空気を読み、常に周りを見て、自分のポジションを調整する世間法とは真逆の教えだから、いつの時代も仏法は敬遠されるが、本物はこれだけだとおもう。
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