如説修行の心なし
末代には、仏法にも如説修行は次になりて、よき定めたる一部の文をよみおわりては、またこと文をのみ見たがりて、ただよみつむばかりをこととして、物の用にたて、如説修行の心なし。戯論妄想のかたには心ひきて、おこない物ぐさきなり…
『栂尾明恵上人遺訓』より
[私的超訳]
世も末になると、釈尊直説の瞑想を嫌い、仏典を次々読み飛ばし知識自慢するネタだけ増やして、肝腎の釈尊が勧めた無常を実感する実践には見向きもしない。人が注目する派手な妄説を好み、地道な努力の継続を面倒くさがる…
悲しいかな、まさに自分のことだ。
瞑想は、思い出しては試みるが、ちっとも続かず、そのいいわけに仏典など読み、ネット説法など見聞きしている。しかも日々の大半はさらにくだらないことで時間をつぶしている。
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