補足
自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。
財をも国をも望んではならぬ。邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。
(道にかなった)行ないあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。
人々は多いが、彼岸に達する人々は少い。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。
真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。
(ブッダの真理の言葉ダンマパダ84・85・86 中村元訳)
釈尊には出家前につくったラーフラという子があった。ラーフラは後に見事十大弟子の1人に成長している。そのうえでの発言である。いうまでもないが、ラーフラは子を望まなかったし実際つくらなかった。
前記事のコメントに「釈尊の教えに従えば人類は滅びてしまうと非難する人がいます。こういう口先だけの人はいつでもたくさんいます。いくら釈尊の説教を聴いても、人類がセックスを止められるわけないので余計な心配しなくて大丈夫です。だから「人類」に説法するような無駄を釈尊はしませんでした。…説法は、男とか女とか人類とかに関係ない個人にします。変われるのは個人だけだからです。」と書いた。死ぬのは人類ではなく、自分が独りで死ぬのだ。
ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、──意識を失い、無用の木片のように、投げ棄てられて。
(ダンマパダ41)
事実そのままを言ってるだけです。釈尊ともあろう至高賢者がなぜ「こんなわかりきったこと」を言わないといけないのでしょうか。
以上、「人生の問題を解決する唯一の方法は、幻想を捨てて事実を受け入れることだ。」と書いた前記事の補足でした。
[同日追記]
上の教えは「子を望んではならぬ」とあるので、当然出家者に言われたものだとおもってました。在家信者にこんな無茶を言う釈尊じゃありませんから。しかし、あらためてよく考えるとなんかおかしい。釈尊在世当時の出家者に「子を望むな」って、そんな基本的注意をするだろうか。さらに当時のサンガに「財産や国家権力を望むな」と戒める必要が一般的にあったとも考えにくい(まあ、例外は提婆達多くらいか)。…どうもよくわかりません。