哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

法句経 六偈の解釈


人々は(争いによって)、自己破壊してしまうことを知らない
それを知っているならば、あらゆる争いは消えてしまう。

(Dhammapada 法句経 6)

ゴータミー精舎日記 http://gotami.j-theravada.net/
に協会の音声CD-R『ダンマパダ(法句経)講義 6偈~みんな争いの空しさを「知ってるつもり?」』が公開されている。
興味のある人はぜひダウンロードして聴いてほしい。
→ http://www.j-theravada.net/podcast/dhammapada6.mp3

おれはこのスマナサーラ長老によるダンマパダ六偈講義の存在を知らなかったが、今回初めて聴いて非常にありがたかった。
長老はこの偈ができた原因になった事件の顛末を、パーリー語テキストの伝統に従って詳しく説明してくれる。
確かに中村元訳の「われわれはここにあって死ぬはずのものであると覚悟しよう」では、この事件とのつながりがチグハグになるとおもう。
「人々は(争いによって)、自滅してしまう。」と訳さないと、背景との整合性がとれない。
パーリー語原典は「死神の思う存分になる」といった意味だとのこと。

微妙な問題だな~という印象。

おれは、そもそも先に自分の体験・実感があって、その後で中村元訳ダンマパダ六偈を知って、これは自分の体験の権威付けに都合がいいとおもった。
だから仮に、この詩が誤訳でおれの個人的確信の保障にはならなくても、べつにかまわない。

質問者から『死ぬことを知れば、争いは静まる』ではなんのことかわからないが『争えば自滅すると知れば、争いは静まる』ならわかりやすいという意味の発言があって、それは常識に合っているとおもうが、おれは別の考えがある。

『死ぬことは知られていない。知れば争いは静まる』を『争えば自滅することは知られていない。知れば争いは静まる。』と言いかえても、ちっともわかりやすくはならない。実際のところ、なにも変わらない。
「争えば自滅するんだよ」と言っても、大多数の人々は「知ってるよそんなこと」と答えるだけで、あいかわらず争いは静まらないからだ。まさに講義の表題にあるように「知ってるつもり?」。
だから釈尊は「このことは、知られていない」と言っているのだ。


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