苦という聖なる事実
一切皆苦、人生は苦であるという事実は、人々にとってもっとも聞きたくない、知りたくもない究極的に暗い嫌なメッセージだ。
(その証拠に昔も今も、ほとんどの人がこの事実をうっかり直視してダメージをうけないようにけっこう注意して生きている)
では釈尊はなぜ、よりにもよって、これに「聖なる真理」(苦聖諦)とあえて「聖」の概念をつけたか。
この一切皆苦の事実にのみ、人間を真に根底から救う力があるからだとおもう。
幼稚な子供のように一時的な慰めや気晴らしの繰りかえしに、もはや満足できなくなった人間は、この一切皆苦に正対して救われるほかに道はない。
この唯一の可能な脱出路のおかげで、人は真の絶望をまぬがれている。
だから、たんなる「苦という事実」ではなく「苦という聖なる事実」とよばれているのだとおもう。
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