ショーペンハウアー3 罪を憎んで人を憎まず
「人間はひとたび生れればあとは永久に彼であり、自分が何であるかは、あとから追い追い認識していくのみである」
(ショ-ペンハウアーの主著「意志と表象としての世界・正編」第五十五節。西尾幹二訳・中央公論社。以下 55 と表記する)
「このような人になりたい、あのような人になりたい、と決心して人間にはできるものではなく、また別人になるなどということが不可能なのもそのためである」
「人間はいっさいの認識に先立ってすでに自分で自分を作り上げている作品だ」以上55
ショウペンハウアーの人間観を読みすすむにしたがって、平均人や悪人に対する非難攻撃がしだいに無意味な徒労に思えてくる。
さらにショーペンハウアーの人間観を見てみる。
「われわれはただア・ポステリオリに、経験によってのみ、他の人々を知るが、われわれが自分自身を知るのもそれと同様である」
※『ア・ポステリオリ』
学習によって後天的に獲得すること
「他人の性格は曲げられない、このことをわれわれは経験を通じてはじめて知らされる。経験でこのことを悟るまで、われわれはだれかある相手に理性的な考えを与えたり、頼んだりすがったり、手本を見せたり義侠心に訴えたりして、相手にその人なりのやり方を止めさせよう、行動の仕方を変えさせよう、思考のあり方を違わせよう、さらにその人の能力までも拡大しよう、というようなことまでやれるものだとわれわれは無邪気にも信じているのである。
ところがこれと同じことがわれわれ自身についても言えるのだ。
われわれも経験をまってはじめて、自分が何を欲し、何をなし得るかを学び知るよりほかに仕方がない。
経験でこのことを悟るまで、われわれはそれを知らず、また無性格な人間なのであって、たびたび外部からの苛烈な衝撃を受けては、自分なりの道へつれ戻されるような仕儀にならざるを得ない」
「人間は、意志の結果として、また意志の性能に応じて、自分を認識するのであって、古いものの見方にあるように、認識する結果として、また認識に応じて、なにかを意志するというのではそもそもない」
「決断が起こってみなければ、われわれは自分がどんな種類の人間であるか分からないだろうし、行為をしてみてはじめて、われわれはそれに映して自分というものを知るのである」以上55
このようであってみれば、他人の生き方を攻撃するのはむしろ理不尽ではなかろうか。
080227追記
これは人間の実際の姿であるが、同時に「人は自分はこういう者だと思っているとおりの者になる」という深いレベルにおける事実も確かにあるとおもう。
この「矛盾」は見かけ上のものにすぎない。
同じひとつの事実を表と裏から二通りに表現しているだけだ。
しかしこの辺り、よりわかりやすい表現の工夫は必要なので、それはまたいずれ。
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