ショーペンハウアー2 道徳と法律の関係
道徳が第一義的に考察の対象とするのは、個人の良心である。
行為することによって他人の側に生じる結果は道徳の第一義的な直接の対象ではないし、そうであってはならない。
この逆をいくのが国家の法律である。
法律はもはや人間の良心などあてにしない。法律は個人の良心とは関係しない。もっぱら社会に生じる受苦を最小限に抑えることのみが考察の対象となる。
立法とは「純粋な法理論ないしは正義と不正の本質ならびに境界に関する理論を、道徳から借り受けておいて、今度はそれを道徳とは無関係な立法上の目的のために裏側から応用し、これにしたがって実定的な立法、さらにこの立法を堅持するための手段である国家を建設するがためのものである」(「意志と表象としての世界・正編」第六十二節。西尾幹二訳・中央公論社。以下 62 と表記する)
「国家というものは、理性を具備したエゴイズムがエゴイズムそのものに降りかかってくるそれ自身の悪い諸結果を回避しようとするための手段」62である。
本来、主体的で能動的だった道徳を受動的な面からとらえなおし裏を表とみなすのが法律である。63
「刑法の法典とは、可能性があると想定された総犯罪行為に対する、反対動機の、できうるかぎり完全な目録である」62
ようするに、刑法の内実の主張は-おまえがこれなる悪をおこなえば実害が他人に及ぶ可能性を認められるかぎり、これなる公的報復がおまえのために用意されている。(だから思い止まるならおまえにとってけっこうなことだ)というものだ。「猛獣も口輪をはめれば、草食動物と同じように害がない」62
かくて法律はエゴイズム調整の手段である。
自分一人のエゴイズムを全肯定して他者のエゴイズムを否定する自然状態を脱して、なるべく大勢のエゴイズムを平等に肯定するための計算ずくの手段の体系である。
問題のポイントは、法律がなんらエゴイズム(悪の根源)の廃絶をめざしておらず、それどころか逆にエゴイズムの不変性・永遠性をあてにし、そうすることによって、それを強化していることにある。
↑これは、過去記事http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzE1OTQxMjE5Lmh0bWw- を書き直したものです。
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