難行道
仏道修行成就を難しくする原因がおよそ五つあるという。
一つには、異教の徒(外道)の相対的な善は、菩薩の法を乱す。
二つには、自分だけのさとりしか考えない聖者(声聞)は、自己の利益にとらわれて、菩薩の慈悲の邪魔になる。
三つには、みずから顧みることを知らない悪人は、他人の優れた功徳を破る。
四つには、本来は迷いであるのに、表面は善の報いとして現れているものは、欲望を捨てる正しい行いをそこなう。
五つには、ただ自力だけによるものであって、他力の支えがない。
こういったものはつまり、みなごく普通に見られるところであって、たとえていえば、陸路を歩いて行くときは苦しいようなものである。
(教行信証・行巻 石田瑞麿訳)
<原文>
一つには、外道の相修醤の反善は菩薩の法を乱る。
二つには、声聞は自利にして大慈悲を障う。
三つには、無顧の悪人、他の勝徳を破す。
四つには、顛倒の善果よく梵行を壊す。
五つには、ただこれ自力にして他力の持つなし。
これ等のごときの事、目に触るるにみな是なり。
たとえば、陸路の歩行はすなわち苦しきがごとし。
これは念仏を易行道として勧める文であるが、そういう文脈にはそわないかもしれない思いつきを書かせてもらう。
修行が成就しがたいのは、修行者がその行とは直接関係のない様々な惑乱を外境から受け入れてしまうからで、その行自体が難しいからではないと思う。
念仏や題目が坐禅より易しいとは、全くいえない。
それは、実際にやってみれば誰でもすぐ分かることだと思う。
惑乱を受け入れている限り、どんな易行道も難行道と化す。