仏法に
宝の山に入って、なにも取れずに帰ってくる人がいるだろうか?
(武者小路実篤著「維摩経」より引用)
佛教の譬え話に、或る旅人が渇えて水をのみたいと思ってやっと水のある處へ出たが、其處は大きな湖水だったので何處から水をのんでいいかわからないので、とうとう水をのまない内に渇え死んだと云うのがあるが、馬鹿馬鹿しい話と思う人があるかもしれないが、僕達は佛教の経文の多いのに驚いてその教へには手がつけられないと思うことは有り得ることで、この譬え話を読んだ時、本當にそうだと思った。
我等は飲みたい處から飲めばいいやうに、読みたい處から読めばいいのだ。
(引用終)
聞いた瞬間、自分にぴったりくる教えが必ずある。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄後序)の体験は、親鸞聖人の専売特許ではない。
教えを聴きつづけている限り、誰の身にも「この教えは、わたし一人のために説かれたものだ!」と思える瞬間が必ず来る。