哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

一枚起請文

法然上人のことば(2)
法然上人の教えのなかで、これがもっとも好きです。
有名なものだから、知ってる人も多いでしょうが。


一枚起請文


もろこし我が朝に、もろもろの智者たちのさたし申さるる、観念の念にもあらず。
また学問をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思ひとりて申す外には別の仔細候はず。
ただし三心・四修と申す事の候ふは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもう内にこもり候ふなり。
このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあわれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。
念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらにおなじうして、智者のふるまひをせずしてただ一向に念仏すべし。

(黒谷上人語燈録11)



※「一枚起請文(いちまいきしょうもん)とは、建暦2年1月23日(ユリウス暦1212年2月27日)に法然が死の直前に自身で遺言を記したものである。」(Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9E%9A%E8%B5%B7%E8%AB%8B%E6%96%87参照



(追加)
kyomutekisonzaironさんのブログ「混沌の時代のなかで、真実の光を求めて」から一枚起請文の現代語訳をお借りしました。http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/46239183.html参照。

中国 や わが国において さまざまな学者方の扱われてきた 観念の念でもなく、
  また 学問をして その念の意味を理解して 申す 念仏でもない。

  ただ、「 往生極楽のためには 南無阿弥陀仏と申して 疑いなく 往生するぞ 」
  と思い取って 申すほかには、別に 言うべきものはありません。
  ただし、三心・四修 ということのあるのは、 それは 皆 決定して
  「 南無阿弥陀仏(と申すこと)で 往生するぞ 」 と思う中に こもっているのです。

  このほかに 奥深いことがあると思うならば、
  二尊(弥陀と釈迦)の 御哀れみにはずれ、(弥陀の)本願に 漏れることになるでしょう。

  念仏を信じる人は、たとえ (釈迦が その)一代に説かれた八万四千の教法を よくよく学んだとしても、
  一文字も分らない(一文不知の)愚鈍の身となって、尼入道のような無智の者たちに同じて、
  智者の振舞いをせずに、ただ 一向に 念仏しなさい。


                          kyou 現代語訳