哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

架空対談19

仏教者
しかし、僕をやがて確実に襲い僕が必ず従わされる「死ぬさだめ」は済んだことでもないし、なんとなく慣れていることでもない。
死ほど残酷なさだめはない。
恐ろしいもの(死)が確実にやってくるというのに、それが自分にとって何なのか、まったく知らされない。
それなのに、人のできることといったら、それが実際に襲いかかってくるまで、なるべく忘れているように注意することくらいだというんですからね。
これが知恵?人類の知恵なのか?
こんな哀れな、情けないことってないですよ(笑)

現実主義者
だけど、人にとって死は必ずしも悪いことだとは、僕は思わないけどね。
ただ、嫌なのは、たいてい苦痛がセットになってるってことだ。
そのわけは知りたいね。
死ぬのはしかたないとして、痛いのはかなわない(笑)
仏教者に向かって)おたくらは、苦も楽も同じものから出ていて、ともに錯覚に過ぎないといってるようだけど、僕らのように、炎の中に座って涼しいわけがない者はどうしたらいいんでしょう(笑)

仏教者
冗談じゃない。僕だって火は熱いし、水は冷たいですよ(笑)
死に伴う苦痛のわけでしょう。
すべての構成物は、ある時間を経て分解してしまうことは誰でも知っているよね。
人間みたいに、これほど高度に複雑に構成されている存在物の分解(死)は、そのものにとってそれだけ困難性を帯びてくるんでしょうね。

キリスト者
つまり、死の苦しみが強く出てくる。

現実主義者
植物が枯れて分解するような場合より、ずっと手間がかかるのはしょうがないわけか。
人に生まれた時点で、死と苦痛のセットは決定ってことか。

仏教者
キリスト教は、人間の生得の罪をいいますよね。

キリスト者
ええ、原罪ということを説きます。

仏教者
それは、具体的には人間の肉体的精神的弱さをいっていると思います。
異論はあるでしょうが、僕はそう思います。
では、その弱さは何から来ているかというと、生老病死の苦痛への敗北感・屈服感から来る。
だから、この問題の最も根本的な解決は、釈尊の説くように、生病老死の苦から解脱すること以外にないんです。
それは、特に死の苦からの解脱に集約される。
キリスト教の愛も仏教の慈悲も、これなくしては骨抜きになるしかないでしょう。

キリスト者
それは…言うは易いです(笑)

現実主義者
行なうは難い(笑)

仏教者
人の一生は、最後の勝負(死)に勝ったら全部勝ちなんだと思うね。
途中の勝負に全部勝っても、最後の勝負に負けと出たら、それでいっぺんに全部負けだ。

現実主義者
終わり良ければすべて良しってわけね(笑)

仏教者
それで、終わり悪ければすべて悪しってわけです。

司会者
このへんで、話題変えましょうか。






(続く)