哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

意志の否定

過去記事「ショーペンハウアー6聖者」 http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzE3NTU2NDU4Lmh0bWw-ショーペンハウアー哲学の最重要概念「意志の否定」について次のように書いた。


『総じて否定とは、Aを否定してA以外の何かを肯定する結果に落着するものである。
ところが意志の否定の場合だけは、意志以外の何かを肯定するという結果は生じ得ない。

全宇宙は生きんとする意志であり、生きんとする意志以外のなにものも存在しないからだ。
………………

全存在を全否定しようとする意志のエネルギーは、不可能な無に成ろうとして果たせないために行き場を失い、瞬間に反転して直ちに全存在の全肯定となるのではないか。

意志の否定は起こり得ないゆえに、どのような道を通ろうと、結局意志は最終的に肯定されるほかない。

しかし、このような意志が肯定から「無の壁」に激突反転して再肯定に舞戻る、一見徒労に思えるプロセスこそが、最初の自然的な意志の肯定(平均人)と自覚的な意志の肯定(野心家)の持つ宿命的欠点を改善するのではないか。』
(再録)




これに関して、もう一歩踏み込んで書きたいとずっと思っていた。

昨夜、思いついてメモしたものをここに写す。



ショーペンハウアーの「意志の否定」とは、意志の消滅ではない。それは決して起こりえない。
「意志の否定」によって実際に現れるのは、
清められた意志

なのである。



ショーペンハウアーの「盲目の意志」…自分が何を欲しているか知らないひたすらな欲。姿かたちのない強力な生きんとする意欲のエネルギー

…生きんとする意欲それ自体に問題があるのではない。
自然状態の生きんとする意欲が、汚れて現れていることだけが問題なのだ。
意志に絡みついた三つの汚れを全面的に廃棄することこそが「意志の否定」の実際の意味なのだ。



ショーペンハウアーは「意志」の特徴をいくつかあげている。

意志は盲目であり、自分が何を欲しているか知らない点→これは〔誼里留?である。

ひたすらな、強力な生きんとする欲である点→これは貪りの汚れであり、その流れが滞るとE椶蠅留?に変わる。




ショーペンハウアーの「意志の否定」とは、意志そのものを直接否定・廃棄することではなく(それは原理的に実行不可能である)、自然状態の意志にまとわりついた貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の汚れを否定することだ。

それは困難ではあるが、実行可能なのである。


※【貪瞋痴】とん‐じん‐ち
むさぼりと怒りと無知。貪欲と瞋恚(しんい)と愚痴。


貪の否定→否貪=知足

瞋の否定→否瞋=安心

痴の否定→否痴=智慧


清められた意志は、知足安心智慧の意志となる。




自然状態の汚れた意志を清める可能性を、人間だけが有している。

人間が救われる可能性も、ここに確かにある(ここにしかない)。



(未完)



(080427追記)
仏教の核心をあえて一言でいえば「心を清める」ということになる。
つまり自然状態であらかじめ、清めなければいけない心があるわけで、この心こそショーペンハウアーのいう「盲目の意志」だ。生きとし生けるものを支配しているのは心だという仏教の教えは、ショーペンハウアーの意志説を通して、より明確に理解できるとおもう。