『総じて否定とは、Aを否定してA以外の何かを肯定する結果に落着するものである。
ところが意志の否定の場合だけは、意志以外の何かを肯定するという結果は生じ得ない。
全宇宙は生きんとする意志であり、生きんとする意志以外のなにものも存在しないからだ。
………………
全存在を全否定しようとする意志のエネルギーは、不可能な無に成ろうとして果たせないために行き場を失い、瞬間に反転して直ちに全存在の全肯定となるのではないか。
意志の否定は起こり得ないゆえに、どのような道を通ろうと、結局意志は最終的に肯定されるほかない。
しかし、このような意志が肯定から「無の壁」に激突反転して再肯定に舞戻る、一見徒労に思えるプロセスこそが、最初の自然的な意志の肯定(平均人)と自覚的な意志の肯定(野心家)の持つ宿命的欠点を改善するのではないか。』
(再録)
これに関して、もう一歩踏み込んで書きたいとずっと思っていた。
昨夜、思いついてメモしたものをここに写す。
ショーペンハウアーの「意志の否定」とは、意志の消滅ではない。それは決して起こりえない。
「意志の否定」によって実際に現れるのは、
清められた意志
なのである。
ショーペンハウアーの「盲目の意志」…自分が何を欲しているか知らないひたすらな欲。姿かたちのない強力な生きんとする意欲のエネルギー
…生きんとする意欲それ自体に問題があるのではない。
自然状態の生きんとする意欲が、汚れて現れていることだけが問題なのだ。
意志に絡みついた三つの汚れを全面的に廃棄することこそが「意志の否定」の実際の意味なのだ。
ショーペンハウアーは「意志」の特徴をいくつかあげている。
意志は盲目であり、自分が何を欲しているか知らない点→これは〔誼里留?である。
ひたすらな、強力な生きんとする欲である点→これは貪りの汚れであり、その流れが滞るとE椶蠅留?に変わる。
ショーペンハウアーの「意志の否定」とは、意志そのものを直接否定・廃棄することではなく(それは原理的に実行不可能である)、自然状態の意志にまとわりついた
それは困難ではあるが、実行可能なのである。
※【貪瞋痴】とん‐じん‐ち
むさぼりと怒りと無知。貪欲と
貪の否定→否貪=知足
瞋の否定→否瞋=安心
痴の否定→否痴=智慧
清められた意志は、知足・安心・智慧の意志となる。
自然状態の汚れた意志を清める可能性を、人間だけが有している。
人間が救われる可能性も、ここに確かにある(ここにしかない)。
(未完)
(080427追記)
仏教の核心をあえて一言でいえば「心を清める」ということになる。
つまり自然状態であらかじめ、清めなければいけない心があるわけで、この心こそショーペンハウアーのいう「盲目の意志」だ。生きとし生けるものを支配しているのは心だという仏教の教えは、ショーペンハウアーの意志説を通して、より明確に理解できるとおもう。