哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

架空対談15

現実主義者
ところで、あなた達はなぜ死を恐れるのかな。
だれも死を経験していないわけでしょ。
ぼくがいるときは死はいない。
死がいるときはぼくはいない。
だから、心配ないって説もある(笑)


仏教者
そりゃだめだ。
そんな生悟りに落ちついていると、さきになってあわてても間に合わないぞ(笑)
体験していない死を、わたしがこうまで恐れるのは、そも何のためかをよく考えないと。


キリスト者
そうですね。こいつだけは理屈で納得したって、どうにもならないんだから。
もちろん、ぼくだって死ぬのは怖いよ。
いよいよ死ぬというときになったら、死ぬことが一番怖くなるかもしれない。
それは、そのときになってみないと分からない。
しかし、今のぼくは死ぬことよりもっと恐れていることがある。
それは、不幸になること、損をすること、笑いものにおなること、ひとりぼっちになることを必要以上に恐れすぎること……これらは死への恐怖が根底にあって出てくるものだけど、そのために本当には生きられなくなってしまうことだ。
さらに、その本当には生きていない自分をチェックできなくなってしまうんじゃないかという恐れ。生きていないのに、生きているような気分に自分をだましてしまうことに対する恐れのほうが、今のぼくには強いんだ。


仏教者
戦争で生き残った人たちが言うでしょう。「あんな思いは二度とごめんだ。もう、だれにもあんな思いはさせたくない。平和な今はありがたい。平和を大切にしたい。戦争でなくなった人達は本当にかわいそうだ。こんな良い時代も知らずに」と。
しかし、こんなところで、彼らの感慨が済んでしまうのは、どうしてだろうと思うね。
自分をだましているというほどじゃないんだけど。


現実主義者
その人たちがいってることは、まともでしょう。


キリスト者
それは、まともなんだけど、やはり根無し草的でしょう。


仏教者
ええ、人間の実存的把握のまたとない機会でさえ、ものにしなかったともいえる。


キリスト者
そうですね。
べつに戦争だけが唯一の機会ではない。
親兄弟との死別の機会にも、通俗的な感慨だけで済んでしまう。
その奥に湧きあがる、なにやら自分を根底から促すものを、じゃまものあつかいにしてしまう。
なぜ、彼らは死を忘れていられるんでしょう。あるいは忘れているふりを続けられるんでしょうか。


仏教者
ふだん死のことを忘れていられるだけの忙しい生活が、彼らにはあるからでしょう。
生活の煩瑣な事務的事柄の中で、その覚醒の芽をつんでしまうシステムができあがっているともいえる。





(続く)