哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

架空対談8

仏教者
なにか、自分に欠陥があると決めこんで、しかも他人に直してもらおうと、あちこち持ち歩いてしまう。
そのいっぽうで、世間の低劣な情欲を自分の上に現して、いたずらに宿業を重ねている。


キリスト者
結論から先に言っちゃうとね、人間は神を、神の愛を賛美するために生きているんです。
おそらく、人間の全霊を込めた賛美によってのみ神の御心は十分に満足されるのです。
そして、人間の本当に色あせることのない、永続する幸福とは、このこと以外にはないのです。
(にたにた笑っている現実主義者に向かって、語気あらく)
あなた、なにが可笑しいんですかッ!
このことを、人類の何パーセントが知っているかと思うと、ぼくは情けなくなる。


現実主義者
人生は、生まれる。わけも分からずジタバタする。死ぬ。しかも、なにも分からずじまいで。
結局これだけのことだ。
えらそうに、自分だけ分かったようなことを言う奴は、みなうそつき、ほら吹きに決まっている。


仏教者
こういうことはいえますね。
生き物は、なぜ生きるのかということをいちいち考えなくても、生きられるようにできている。
この点では、人間も決して例外じゃない。
「なぜ~なのか」は化け物であり、疫病神だと、まずは思える。


キリスト者
つまり、人間も動物のように生きようと思えば生きられるということでしょう。
なぜ、何のためになんてめんどくさいことを考えなきゃ樂ですからね。


仏教者
そうね。
事実、「なぜ~なのか」という化け物と一生、少なくとも本当の形ではつきあわずに済んでいる人間の方が、この世には多いです。


現実主義者
圧倒的多数を示しているのはまちがいない(笑)


キリスト者
つまり、生きるだけなら「なぜ」はいらない。


仏教者
だから、ある人間が、このやっかいきわまりない「なぜ」を、それにもかかわらず、決して捨てないでいるのは、普通の意味で「生きるために必要」なのではないはずだ。





(続く)




DVDを観る
嫌われ松子の一生」上佳作。
ユニーク。
あの『下妻物語』の監督作品だからまちがいないだろうと思って観たが、期待が裏切られることはなかった。