信仰は神の賜物であって、人はそれを勝手に自分に与えることはできない。…
自分はいつになったら信仰を持つことができようかと、さしあたり絶望しているような多くの人達の方が、ただ外面的に同意しただけで信仰を持っていると思いこんでいる人たちよりも、内的にはいっそう信仰に近づいているのである。…
このような状態にありながら絶望し、自分がどんなに救いに近づいているかを悟りえなかった人々こそ、あらゆる人間のなかで最も憐れむべき人である。
(ヒルティ幸福論第二部「人生の段階」 草間平作・大和邦太郎訳)
絶望は救いに近づくための必要条件ともいえる。パウロは『ローマの信徒への手紙』に「律法は初めから誰も守れないようにできていて、人間に罪悪を自覚させるためにある」という意味のことを書いている。自分がどうにもならない極悪人だと知った者だけが、本気で救いを求めるようにもなるからだ(さもなければ自殺する)。
「自分はいつになったら信仰を持つことができようか」という絶望の極北は、善導大師による
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
の自覚でしょう。
善導大師のすごいところは、この底なしの絶望が、そのまま深信に他ならないと力強く説いたことです。
これを「機の深信」といいます。
機の深信は、もうひとつの「法の深信」とセットになっている(機法一体)という事実に気づくことが重要です。
思いが、機の深信だけだと自殺するしかなくなってしまうからです。
「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を
が「法の深信」です。
思いが、法の深信だけだと軽薄に流れてしまいます。
機がそのまま法であるという、機法一体の自覚が重要なのです。
以前、「ネガティブ自信」の記事で書いた
「自分の影法師が濃く見えるのは、背後から自分に強いスポットライト(弥陀の光明)が当たっているからだ」という気づきを、教学的に表現すれば、機法一体の自覚になります。
※「ネガティブ自信」http://rdsig.yahoo.co.jp/blog/article/titlelink/RV=1/RU=aHR0cDovL2Jsb2dzLnlhaG9vLmNvLmpwL2N5cW5oOTU3LzIwMTA3MDkwLmh0bWw-参照
おれには、上のヒルティの言葉が、この二種深信の見事な解説に聞こえるのです。
ところで、最近は、法の深信方面ばかり説いて、機の深信の重要性をほとんど無視する人が非常に多い気がします。
おれはこのブログで、もっぱら機の深信方面を強調してきましたが、おれなりにバランスをとろうとしているのかもしれません。
機の深信から入って、それがそのままに法の深信だったと発見することが、おれには自然な流れに思える。
法の深信から入って、それがそのままに機の深信だったと発見することは、おれには自然な流れに思えない。それは頭だけの軽薄な理解に留まる危険がある。
宗教に興味のない人は、なにを言ってるのか分かりにくいかも…
※善導
(613年 - 681年)中国浄土教の大成者。
日本の法然、親鸞に大きな影響を与えた。
(Wikipediaより)
※ヒルティ 【Carl Hilty】
(1833-1909) スイスの法学者・哲学者。
プロテスタントの立場から倫理的著作を残す。
著「幸福論」「眠られぬ夜のために」など。
〔大辞林〕
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