哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

澤木興道3

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宗教には連帯責任ということはない。私一人である。


 ようつつしんで親だとか先祖だとか背景だとかで、値うちをもたそうとしてはならぬ。金や地位や着物で味をもたせてはならぬ。自分で生きてゆかねばならぬ。現ナマじゃ。宗教とは現ナマの自分で生ききることじゃ。

 一切衆生は唯我独尊じゃ、自分が自分を生きるよりほかはないんじゃ。それをどうして見失うたか。

(「澤木興道老師の言葉 禅に聞け」櫛谷 宗則編)



ありのままの自分を知って、深く信じよ。
自信を持て。ってことです。



 「無常を観ずることを菩提心と名ずく」と『学道用心集』にはある。
ところでまた「菩提とは、如実に自心を知る」ことじゃと、『大日経』には言うておる。
つまり

「無常を観ずる」ことが、何より「実のごとく自心を知る」ことじゃ。

(同)



「人は死んでも自分は死なない」なんて最低の嘘を自分についていたら、無常を観ずることは不可能です。
したがって「実のごとく自心を知る」はできず、自信を持つことも不可能になる。




このごろグレン隊やら何やらが悪いことしてつかまると、「環境が悪いので」とか何とか言いおる。
 いったいどんな環境がよくて、どんな環境が悪いのか。金持ちの息子に生まれれば悪いのか、貧乏人に生まれればいいのか。
 だいたい男一匹に生まれて「自己がない」ということこそ、真に環境が悪いんじゃ。

泣き顔をヤメイ。ちっちゃな気で「オレはツマラヌ」と思い、「ヒトはエライ」と思うて泣き顔してコセコセして。---そしてちょっとツマルと調子づきやがって。

 宗教をもって生きるとは自分で自分を反省し反省し、採点してゆくことである。

(同)



※画像は「禅談」(大法輪閣)口絵より