哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

宝積経

昨日の維摩経の一節。
「スメール山のような(高慢な)我見を起こし、しかも悟りに対して発心するとき、そこに仏法は生長するのです。」
(7章)


宝積経にも同様の有名な主張がある。



「慢心のある者が空性という観念(空見)によって、(自分の思想を)飾りたてているよりは、スメール山ほどにも大きな個我の観念(我見)によっているほうが、まだしもましである。」

(宝積経カーシヤパの章 長尾雅人・荒牧典俊訳)



宮本百合子が、こういう文章を残している。


『宗教が何処の国でも、その支配階級の道具として使われていることは、難かしい色々の理屈をいわないでも、吾々の日常生活の中にはっきり現れていると思います。

 この間も、ラジオの昼間放送を聞いていたら、何処かの偉い坊さんが喋っている。どういうことを云っているかと聞いてみると、
「金持が妾をおいたり、別荘をもったり贅沢三昧をしているのは、魂の安住と云うことを知らぬ哀れなことだ。それを皆さんが羨やんだり憎んだりするのはまちがいで、貧しい者こそ心がけ一つで魂の安住が得られるのだ。だから、昨今のように世の中が険しくなって、社会主義だのプロレタリア解放運動だのやかましい時代に生きる吾々としては、自分の貧しさを魂の安住の方便として仏が与えてくれたものと考え、宜しく仏の加護を信じて魂の平安を期さなければならない。」…』

(「反宗教運動とは?質問に答えて」青空文庫


プロレタリア解放運動とか出てきて、ずいぶん古い話(1931年)だけど、口を開けばこんなことばかり言ってる「支配階級の道具として使われている」「何処かの偉い坊さん」って、今でもいっぱいいる。

ステレオタイプの悟りで飾られた「聖者」の説教ほど忌まわしいものはない。

スメール山のような我見を起こした野心家の話を聞くほうが、まだしもましだ。