おれは過去記事「あの悪夢が二度と現実になりませんように」で、悟りを目指す準備段階として「自己の確立」が必要不可欠だと書いた。
「自己の確立」は、本来無い自己を立てるから、矛盾ではないかとか、最終的に消える(ないし最初から無い)「自己」をわざわざ起こすのは迷うための無駄な苦労でないのかとか言う人がいる。
そういう人は、言葉の字面 に迷ってるに過ぎない。
戦後生まれの日本人が子供のころから教えられてきた西洋的文脈でいう自己確立の内実は
「自分は、今までぼんやり生きてきたが、これからは人間として自覚的にしっかり生きていこう」
と決意することだ。これは、仏教が昔から説いてきた「菩提心を起こすこと(発菩提心)」と同様の心理状態だから、言葉にとらわれない限り、矛盾は何もない。
自己確立抜きの無我の教えは唾棄すべきものだ。
自己確立もできない者に、自己をならふも自己をわするるもない。
プラユキ・ナラテボー師の法話の中で、ブッダに
我具足の教え(健全な我を具足すること)
があると知って、わが意を得た気持ちになった。
世間に流布してる仏教というと「我を捨てよ」的お説教のみ一方的に強調されてるのが、おれは絶対変だとずっと思ってた。
最初から我を捨てよ我を捨てよでは、仏道修行などできるわけないからだ。
世間に流布してる仏教というと「我を捨てよ」的お説教のみ一方的に強調されてるのが、おれは絶対変だとずっと思ってた。
最初から我を捨てよ我を捨てよでは、仏道修行などできるわけないからだ。
仏道の目的は抜苦だ。
抜苦に至る唯一の道は、今ここに気づくことだ。
今ここに気づくには、
呼吸瞑想、手動瞑想、歩く瞑想、立つ瞑想、坐る瞑想等で実況中継に精進する。
精進によって無我に至るが、無我に至るまでの精進に、健全な我が必要なのは当然のことだ。
※
目的地に着くまでは、
目的地に行くという意欲が必要だが、
目的地に着けば、
その意欲は役目を終え消えてる。
あたりまえの道理であり、
分からない方がどうかしてる。
プラユキ・ナラテボー師の「手動瞑想」
最初からあまり細かいsensationに集中しない。最初から細かくラベリングしようとしない。集中は必要だが、集中し過ぎる(←実は焦って集中しようとして空回る状態)と続かなくなり、元も子もなくす。
瞑想は「今ここ」に目覚めるためにやる。
仮決めでいいから、一応間違いのない狙いを憶えておくのは、努力が空回りしないために必要なことだとおもう。