佐々木閑「仏教哲学の世界観」1-(11)
おれにとって瞑想といえばブッダのヴィパッサナー実践のことだが、
佐々木先生は瞑想をもっと広範に説かれてる。
そして、瞑想はブッダ以前からあったから、こっちが本来の意味だ。
そうなると、
瞑想しないで悟ることはないが、
瞑想すれば必ず悟るなどということもあり得ない。
ことになる。
瞑想とは
あらゆる課題解決に使える汎用スキル
だからだ。
今では瞑想と聞くと、冷笑で応じるのを常とする世間の多数者に、こんなことを勧めるのは「赤ん坊に色事をしかけるようなもの」で、およそ甲斐無いことだが、
瞑想に励んで、ついに
の教えひとつを信じて生きるほうがはるかに優れていると、おれはおもう。
※『非想非非想処』
釈尊が出家してまもなく習得したきわめて高度な瞑想状態。
修行中の釈尊の先生であったウッダカ仙人は、サマタ瞑想の達人(非想非非想処はサマタの極致)だが、解脱できずに死んだ。
※『諸悪莫作 衆善奉行』
諸々の悪を為すことなく、もろもろの善を行い、自ら心を浄くせよ、是が諸仏の教えなり。(七仏通誡偈)の前半部。
(ブッダ 神々との対話 中村 元訳1・4)より引用させていただきます。
死に襲われて、人間としての生存を捨てつつある人にとっては、何が自分のものであろうか。
かれは、何を取って、行くのであろうか。
何が、かれに従うものであろうか。
ーー影がそのからだから離れないように。
人がこの世でなす善と悪との両者は、その人の所有するものであり、人はそれを執って〔身につけて〕おもむく。
それは、かれに従うものである。
ーー影がそのからだから離れないように。
(過去記事編集再録)