映画「29歳からの恋とセックス」観た。
ウィキペディア「29歳からの恋とセックス」[ストーリー]より引用させて頂きます。
30手前の作家志望の大学院生ローラは、長年付き合っていたルークとの結婚を控え、幸せの絶頂にいた。しかし、突然ルークが婚約解消を言い渡してくる。これに強いショックを受ける彼女だったが、そんな彼女を見かねた周囲の支えもあって、新しい出会いを探すことにする。だが、なかなかそれも上手くいかず、焦る彼女の前に、再びルークが現れ、なんとよりを戻してほしいと訴えてくる。ところが、彼には他にも女がいることがわかり、いよいよローラは追い詰められていく。
Lola Versus (2012)←探したけど吹替版はなかった。
映画に出てくるセリフ。
「よく自分を愛せない者は人を愛せないって言うけど違うと思う。人を愛して初めて自分を愛せるようになるのよ」
多くの若い女性が深く頷くだろうが、それならイエス・キリストは「隣人を自分のように愛せ」と言わなかったはずだ。恋人は隣人中の隣人だろう。
これについて、仏典に記録されてるパセーナディ王と愛妻マッリカー夫人のほほえましいエピソードを思い出す。
それは、次のような話。
マッリカー夫人に、王が
あなたは誰を最も愛してますか?
と、訊きました。
マッリカーは
私は自分を一番愛してます。
(パセーナディ王ではなく)
と答えたのです。
パセーナディは、意外だったろうが、怒ったりはしてない。
このいきさつを聞いたブッダは、次のように教えられたのです。
人の思いは
されど、何処に行こうとも、
人は
それと同じように、
すべて他の人々にとっても自己はこのうえもなく愛しい。
されば、
おのれの愛しいことを知る者は、
他のものを害してはならぬ。
(釈尊 サンユッタ・ニカーヤ3・8増谷文雄訳)
「人は己よりも愛しきものを見出すことを得ない」のは、明々白々の事実です。
ところが、事実を事実として、ごまかさずにはっきり認める人は意外に少ないのです。
自愛は善悪以前の厳然たる事実であって、マッリカー夫人の答えは本当に正直で立派だと、昔初めて読んだときから感心しています。
ここを曖昧にしたら必ず偽善に堕ちる。
ここが曖昧な者は「おのれの愛しいことを知る者は、他のものを害してはならぬ」(自分に引き比べて殺してはならない、殺さしめてはならない)という結論の、
動かしがたい必然性
が分からなくなるからです。
「おのれの愛しいことを知る者は、他のものを害してはならぬ」…この戒の本当の意味は「害せない」から「害さない」という動かしがたい必然性にあります。
たとえば「殺すなかれ」という戒を常に確実に自然に守れるのは、「殺すなんてとんでもない!」と感じる人だけです。
戒は外からの禁止ではなく、内なる必然です。
そうでなければ守れないのです。
実はこの話、パセーナディ王がブッダに会いに行き「自分自身が最も愛しいのですが、これでいいんでしょうか 」と訊いたことで、仏典に残ったのです。
「これでいいのか 」と思う以前に、すでに無条件に「自分が一番愛しい」と強烈に思ってしまっている。良いとか悪いとかいっても意味はない。動かしがたい事実だから、ごまかさずそのまま認め受け入れるしかありません。強烈に思ってるのに、それに気づきたがらない人間って不思議です。このスタート地点を曖昧にごまかすから、その後の全ての言動が曖昧になって罪を犯してしまう。「自分が一番愛しい」とものすごく強く思ってるのに、それを認めない人が、他のものを傷つけるんだと思います。
事実をごまかすと、非常に多くの災いを招くので注意が必要です。
子供が「なんで人を殺しちゃいけないのか」と訊くと、多くの大人が「そんな常識も分からんのか」と、あきれ顔で嘆いて見せるが、実は自分達も分かっちゃいないことを眼前の実社会で毎日証明してる。
この世界で、現に害し合い殺し合いが絶えないのは「おのれの愛しいこと」を真に知る者がめったにいないからだと思います。
「おのれの愛しいこと」を真に知る者は、自分が死を超えられない者である事実をまっすぐ知り、その智慧によって自由を得ます。
パセーナディ王はこの教訓から深く学ぼうとしなかったが、マッリカー夫人への愛も、ブッダに対する尊崇もまた変わることはありませんでした。