哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ひたすら生きんとする盲目の意志は地獄でも愛する

 

「地獄」の真実を1分で語ります #shorts #スマナサーラ長老 #初期仏教 #jtba - YouTube

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ひたすら生きんとする盲目の意志に支配されてる人間は、

 

地獄に生れても、地獄に生れて良かった

 

と思うようになってる。

 

自分で作った地獄が楽し過ぎて、

言葉遊びの無駄話に夢中になって。

 

これは智慧なんかじゃない。

 

生まれながら持ってるもので、

ちまちま優劣を競って。

 

その凄惨な無意味に
うんざりするのが解脱の道。

 

世俗的人間は、若いうち渇愛にちょっと抵抗してみた後にすぐ屈服して、渇愛を心から肯定して改めて生き直す。

 

人生に目覚めるとは、結局

苦しい現実を喜んで生きようと自分で決心しなおすことだ

という、アホみたいな結論になる。
賢愚の別なくみんな口をそろえてそういう結論になる。

 

これを、人生の究極の智慧とみなし、サトリとはこれだろうと思って自画自賛してる。

 

なんのこともない、

獣が無自覚にやってる生き方を、人間は自分の意志で選択して、はっきり自覚してやってるに過ぎない。

 

そして、渇愛から目的を作り、さんざ苦労して

天界に生れたら、天界に生れて良かった

と思う。

 

他の人間は、それを「よそはよそうちはうち

と言いながら羨み妬み憧れる。

 

渇愛奴婢ぬひうしの内輪話であり、

これも智慧なんかじゃない。

善いか悪いかじゃない。

問題はそこじゃない。

 

 

苦しみには終わりがない。

渇愛は根絶しなければならない。

 

渇愛から目的を作ったらきりがない、

渇愛の根絶を目的に努力する。

 

その努力も渇愛だろうというのは、

味噌と糞をまぜこぜにする愚か者だ。

 

目的地に着くまでは、

目的地に行くという意欲が必要だが、

目的地に着けば、

その意欲は役目を終え消えてる。

あたりまえの道理であり、

分からない方がどうかしてる。

たぶん、絶対行きたくない臆病心を

我ながら頼もしく感じて

馬鹿自慢でもしてんだろう。

 

(過去記事統合増補編集再録)