哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

邦画「SADA」真っ正直な煩悩具足のお定さん

以前紹介した「SADA」が今

 gyao!で無料視聴できます(1月15日(日)まで)

     SADA

 

gyao!タイトル情報から引用させていただきます。

神田の畳屋の娘・定は、14歳のとき、処女を奪われる。定を慰めたのが医学生の岡田で、定は岡田に恋をするが、彼はハンセン氏病で、定の手にナイフを残し姿を消す。
神田の畳屋の娘・定は、14歳のとき、処女を奪われる。定を慰めたのが医学生の岡田で、定は岡田に恋をするが、彼はハンセン氏病で、定の手にナイフを残し姿を消す。売春婦になった定は各地を転々、パトロンの立花の勧めで料亭「きく本」に住み込みで働き出す。しかし定は主人の龍蔵と深い仲になり、二人で旅館に入り浸る……。

Sada (1998) Trailer - YouTube

 

阿部定事件を元にした映画で秀逸なのは

愛のコリーダ

だが、このSADAもなかなかいい。

監督のタッチが文学青年臭いのは気になるが、

それも観てる間になれてきて、

作品を楽しめるようになる。

 

 

作家の坂口安吾

実際に阿部定と対談し、

「お定さん」の印象を、

ごく平凡な下町の女性で、

人見知りせず気立ての良い明るい性格

と書いてる。

 

以前、ネットで愛のコリーダ(ノーカット版)を見て、当時のことを思い出した。

ン十年前、映画館で最初に見た時、

バックグラウンドから常に軍靴の音が聞こえる暗い時代に抗して咲いた狂花の話だから仕方ないとはいえ

(辛気臭い映画だなあ)と、あまりいい印象はもたなかった。

しかし、

その後クインシー・ジョーンズがリリースした名曲「Ai no corrida」を聴いた時、
あのじめじめした辛気臭い映画に触発されて、こんなパワーあふれる明るいかっこいい!曲を作る人間がいることに、おれはひどく感動した。これこそが阿部定事件の本質を最も適格に捉えてると気づかされたからだ。

こんなぶっ飛んだ素晴らしい発想は、日本のどれほど才能ある作曲家でも、不可能だろうとおもう。
まさに、陽気に生きるためなら親でも殺すカラッとネアカなアメリカの面目躍如だとおもったのだ。

 

 リアルタイムで聴いたやつはもっと短かった。これは良い感じの間奏を挟んだロングバージョンでこっちの方がさらにノリノリ。

 

 ところで、調べたら、クインシー・ジョーンズのレコードはカバーで、オリジナルはチャス・ジャンケルというイギリス出身のミュージシャンだった。まあ映画にインスパイアされてチャス・ジャンケルが作曲しクインシー・ジョーンズが編曲して大ヒットしたということで。

 

 

【朗読】阿部定さんの印象 坂口安吾 - YouTube

 

 

坂口安吾「阿部定という女(浅田一博士へ)」

より引用させていただきます。

 いつごろから恋をしましたか、と私がきゝましたら、吉さんとあゝなるまで、つまり三十三かの年まで恋をしたことはなかった。あれが自分には一代の恋だった。然し、もし、これからでも、恋ができるなら、したいとは思っている。
 そのときお定さんはこう附けたして言いました。世の中の大概の女の人は一度も恋をしないで死ぬ人も多いのだから、私は幸福なのだろう、と。
 然し、お定さんは男が好きになった。そして、その男にだまされた、そういうことは十六七から何度もあったのですが、それを恋愛とは考えていないのです。そして、自分の愛する人に自分も亦愛された、相思相愛、つまり吉さんとの場合だけが恋であり、三十いくつで一代の恋を始めて知った。世の多くの女の人は恋を知らずに死ぬ人も多い、そう申しておるのであります。
 又、お定さんは、自分はあのことは実際は少しも後悔していない、世の中の女の人はみんな、もし本当に恋をすればあゝなるだろうと思っている、みんな、同じものを持っている筈と申していました。
 事実、あの出来事には犯罪性というものは全く無いように思われます。吉さんの方にはマゾヒズムの傾向があって房事の折に首をしめて貰う。殆ど窒息に近いまで常に首をしめて貰う例だそうで、たまたま本当に死んでしまった、お定さんは始めは気がつかなかった程で、そういうクライマックスで死んでいった吉さんを殺したような気がしないのは自然であり、むしろそのまま死んでしまった吉さんに無限の愛情を覚えざるを得なかったのは当然だろうと思います。まったく二人だけの至高の世界に於ける一つの愛情の完結みたいなもので、吉さんが死して自分と共に一つに帰したような思いもしたろうと思われます。
 そういうアゲクに吉さんの虚しい屍体を置き残して立ち去るとすれば、最愛の形見に一物を斬りとることも自然であり、最も女らしい犯罪、女の弱さそのものゝ姿で、まことに同情すべきものゝ如くに思われます。
 八百屋お七を娘の狂恋とすれば、お定さんは女の恋であり、この二つはむしろ多く可憐なる要素を含むもので、特に現実の女としてのお定さんというものは、たゞ弱く、ひたむきな、そして案外にもつゝましやかな女、極めて平凡そのものゝ女、そういう感じの可憐な人でありました。
 私はお定さんのような事件は正しい意味で世間の人々が理解する必要があると考えていますが、だいたい男女の肉体生活の合理性というものが、もっと公開的に論議せられることが望ましいと思うものです。

(引用終)

 

 

煩悩障眼雖不見
大悲無倦常照我

真っ正直な煩悩具足のお定さんに幸あれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)

 

(過去記事再録)