マインドフルネス・ダイエット コーサラ相応「大食経」を読む|ゆるねこ仏教オンライン講座18(22 Nov 2022) - YouTube
動画より引用させていただきます。
「人に、常に正念あり、
得られた食物に量を知るならば、
痩身の者には〔快適な〕諸々の感受がある。
彼は寿命を守る者となり、緩やかに老いる」と。
(大食経)
法王ブッダと世俗王パセーナディは、現実的にこれ以上の関係は望めない、それほどお互いの距離感が絶妙だったとおもう。
パセーナディ王は、ブッダを尊崇したが、世俗の欲に従う己の生き方を生涯貫いた。
ブッダは、パセーナディ王の生き方を無理に変えようとは一切してない。
そんなことをしても、より悲惨な結果を生むだけだと熟知してたからだとおもう。
パセーナディの奔放な覇王的生き方は、釈迦国滅亡の原因を作り、自らも悲惨な最期を迎えたが、彼は、そのようにしか生きられなかったのであり、すべて自業自得の一生だった。
おれは、パセーナディ王と愛妻マッリカー夫人のほほえましいエピソードが好きだ。
それは、次のような話。
マッリカー夫人に、王が
あなたは誰を最も愛してますか?
と、訊きました。
マッリカーは
私は自分を一番愛してます。
(パセーナディ王ではなく)
と答えたのです。
パセーナディは、意外だったろうが、怒ったりはしてない。
このいきさつを聞いたブッダは、次のように教えられたのです。
人の思いは
されど、何処に行こうとも、
人は
それと同じように、
すべて他の人々にとっても自己はこのうえもなく愛しい。
されば、
おのれの愛しいことを知る者は、
他のものを害してはならぬ。
(釈尊 サンユッタ・ニカーヤ3・8増谷文雄訳)
「人は己よりも愛しきものを見出すことを得ない」のは、明々白々の事実です。
ところが、事実を事実として、ごまかさずにはっきり認める人は意外に少ないのです。
自愛は善悪以前の厳然たる事実であって、マッリカー夫人の答えは本当に正直で立派だと、昔初めて読んだときから感心しています。
ここを曖昧にしたら必ず偽善に堕ちる。
ここが曖昧な者は「おのれの愛しいことを知る者は、他のものを害してはならぬ」(自分に引き比べて殺してはならない、殺さしめてはならない)という結論の、
動かしがたい必然性
が分からなくなるからです。
「おのれの愛しいことを知る者は、他のものを害してはならぬ」…この戒の本当の意味は「害せない」から「害さない」という動かしがたい必然性にあります。
たとえば「殺すなかれ」という戒を常に確実に自然に守れるのは、「殺すなんてとんでもない!」と感じる人だけです。
戒は外からの禁止ではなく、内なる必然です。
そうでなければ守れないのです。
実はこの話、パセーナディ王がブッダに会いに行き「自分自身が最も愛しいのですが、これでいいんでしょうか 」と訊いたことで、仏典に残ったのです。
「これでいいのか 」と思う以前に、すでに無条件に「自分が一番愛しい」と強烈に思ってしまっている。良いとか悪いとかいっても意味はない。動かしがたい事実だから、ごまかさずそのまま認め受け入れるしかありません。強烈に思ってるのに、それに気づきたがらない人間って不思議です。このスタート地点を曖昧にごまかすから、その後の全ての言動が曖昧になって罪を犯してしまう。「自分が一番愛しい」とものすごく強く思ってるのに、それを認めない人が、他のものを傷つけるんだと思います。
事実をごまかすと、非常に多くの災いを招くので注意が必要です。
子供が「なんで人を殺しちゃいけないのか」と訊くと、多くの大人が「そんな常識も分からんのか」と、あきれ顔で嘆いて見せるが、実は自分達も分かっちゃいないことを眼前の実社会で毎日証明してる。
この世界で、現に害し合い殺し合いが絶えないのは「おのれの愛しいこと」を真に知る者がめったにいないからだと思います。
「おのれの愛しいこと」を真に知る者は、自分が死を超えられない者である事実をまっすぐ知り、その智慧によって自由を得ます。
パセーナディ王はこの教訓から深く学ぼうとしなかったが、マッリカー夫人への愛も、ブッダに対する尊崇もまた変わることはありませんでした。