哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

まず自分が幸せにならないと、誰一人幸せになれません。

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その13」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ) - YouTube

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〔聞法と感想〕

仏伝によると

「わたしが悟った甚深微妙難見の法を世間は到底理解しがたい。法を説いても、わたしがいたずらに疲労困憊するだけだ」

とおもう釈尊に、梵天

「世間には、法を聞かなければ退堕してしまうが、聞けば悟る可能性のある者もいます。この者たちを見捨てないでください」

という意味のお願いをした。釈尊はこれを是とし

「耳ある者に甘露の門は開かれた」

と宣言し初転法輪を決意したんです。

 

だから、仏法はそもそもの初めから、一切の衆生を解脱させようなどという話では、まったくありません。

 

 

釈尊は目的地(解脱)までの正しい道筋を教えてくれる唯一無二の師です。自分がそこに実際に行った人の教える道順だけが信頼するに足るものです。

しかし、

 

教えても絶対行こうとしない人

 

を無理やり引きずっていくことなど誰にもできません。

 

大乗仏教は、一切衆生を一人残さず救えるという。

釈尊超えた?

 

彼らが自分たちの誰一人できないことを主張しているのは明らかだとおもいます。

仏教徒は当然、宗祖の教えより釈尊の教えを尊重すべきだとおもいます。

 

教えても絶対行こうとしない人は普通にいっぱいいます。

世間の99%の人は、この世で「欲望満足ゲーム」をいつまでもやり続けたいので、解脱(二度と生まれない)など1ミリも望んでません。六境六根への執着を無上の楽とみなし、夢中で貪ってる真っ最中だからです。

 

ブッダのことば。

苦に夢中なら、当然

その人は苦から抜けられない。

 

 

世間の大多数の人は、解脱するための教えである苦諦も無常も無我も、すべて蛇蝎の如く忌み嫌ってます。ある意味見事に、辻褄は合ってる。古今東西、この上なく頑固に首尾一貫した生き方を、彼らなりにしてるんです。釈尊といえども、一朝一夕に変えられません。このことは、釈尊に当初布教を断念させるほどの明確な事実でした。

 

 

 

 

 

 

 現代の問題は、ほんとうに自分一個の救いに 精一杯の人がどこにもいないことだ、とおれはおもってます。
悟る前の釈尊はそういう人だったとおもいます。

 

 

浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
歎異抄 第四条より)


 ここで親鸞聖人は、浄土教特有の表現ながら、自分が溺れている身で人を助けることはできないという釈尊の本来の正しい教えに見事に回帰しているとおもいます。

 

 

「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」(農民芸術論綱要)と、宮沢賢治はいった。この自未得度先渡他(じみとくどせんどた)は、かっこいいんで昔から評判が良い。

 

しかし、これは釈尊の教えではないとおもいます。

 

 

 

(老婆心補足)
かっこいい」はいわゆるironyです。

 

自分の縛めを解かずに人の縛めを解くことはできません。

釈尊ならむしろ「個々人が真の幸福(悟り)になろうとしないうちは、世界がぜんたい幸福になることはありえない」と言うとおもいます。

他人の縄を解きたいひとは、まず自分の縄を解きなさい、この順番はかえられません。

まず自分が幸せにならないと、誰一人幸せにできません。

親鸞聖人は歎異抄第四条でそう言っているんだとおもいます。

 

 

 

最後にもうひとつ。

 

自分の暗い部屋で落し物をした人が、ここは暗くて探しにくいとおもい、別の明るい部屋で探します。その人は精一杯がんばって探すが、当然落し物が見つかることはありえません。(昔読んだたとえ話)

「人は死んでも生きている」という世間一般の幻想を自分も共有したままで、いくら精一杯救いを探し求めても、落してない明るい部屋で探してるようなもので、救いは見つかりません。
おれの考えでは、それは口先だけの「 精一杯 」です。