心の同義語 スマナサーラ長老の初期仏教Q&A|ブッダの智慧で答えます(ZOOMで一問一答) - YouTube
Q:心(citta)、五蘊の識(viññāna)、そして六識の識(viññāna)は、同じ意味、働きでしょうか?前の2つは「知る働き、認識機能、」、六識の識は「眼耳鼻舌身意に、それぞれ、対象が触れて生じる認識」という感じで理解しています。ただ、その理解だと、どれも、「知る、認識する」という感じで、同じ意味、働きにも思えます。心、五蘊の識、六識の識の意味、働きに違いが有れば、教え頂けますと幸いです。(ぶどうすいか)
〔感想〕
同じviññāna(識)という言葉を使うが
五蘊の識>眼識、耳識等の仕事中の識
人としては同じだが
人間>受付係、社長等の仕事中の人間
みたいなこと。
ちなみに、物覚えの悪いおれは、
pcの壁紙をこれにして、毎日見てる。
日本テーラワーダ仏教協会HP 法話と解説 あなたとの対話(Q&A)「五蘊」の概念についてより引用させていただきます。
Q.
「五蘊」の概念がよく分かりません。
さる仏教解説書によると、自己存在を形成する五種の構成要素と定義してあり、「色」は肉体や物質のことで、「識」とは認識作用のことであると定義してありました。
協会HPの解説によると「こころとは認識作用のこと」だそうで、「こころ」=認識作用=「識」?
そうすると自己の構成要素なら「色」「識」(身体とこころ)だけで十分ではないか。「受」「想」「行」は認識作用の過程を分類したもので、「識」にまとめられるような気がするのですが。
A.
*この感想はそのとおりで、正しいのです。
体とこころだけでも自己存在を形成する形成要素だと言うのも仏教教理では一般的です。*では、なぜ五蘊の話するのでしょうか。
仏教は応援者の間で、味方の中で隠れて語られたものではありません。
反論者の間で、釈迦尊一人が獅子吼したものです。
視聴者すべてが、身体と魂の存在を頑固と信じていた。
身体も永遠の物体で、魂も永遠の物体だと言う人も、
魂のみ永遠だと言う人も、魂は副産物で身体のみ元素として永遠だと言う人もいました。釈迦尊も自己がこころと身体と言う二つの要素だと述べると、
「なんだ、単なる言葉の置き換えではないか」とベロを出して見せるでしょう。
仏教の真理では誰からも借りた話はないのです。すべては釈迦尊の発見です。
(もし、異論があれば証拠と一緒に出してみるが良い)釈迦尊がこのように語られる。
自己は五つの要素で構成されている。この五つはなんですか?ルーパ(色ー身体、物質的なもの。それも一つではなく土水火風、…でできている。全て変化して流れてゆく。)
ヴェーダナー(受ー苦、楽、不苦不楽。これも身体が物に触れると生まれて消えて行く。受がなければ「生き物」とは言えないのです。)
サンニャー(想ー概念を生み出すデーターです。概念でも良い。-Sumanasaraの訳です。これも増えたり、減ったりしながら消えてゆく)
サンカーラ(行ー身体を動かしたい、話したい、思考したいというエネルギーです。変わって消えていくのは当たり前です。)
ヴィンニャーナ(識ー認識するという機能です。触れるものによって変わった識が生まれる、消えてゆく。)
この構成の中で何に捕らわれるべきか、何に執着するべきか、何が永遠ですか、何が幸福、至福ですか、何が実体ですか、何が「我」と言えるのですか、原因で現れるのは明確なのに誰に創造されたというのですか。
これが釈迦尊の教えでした。*2から5までこころに、認識に関わる機能ですので二つに纏めて説法することもなされたのです。
誤解にならないように、他宗教の概念とだぶらないように、
同じことを言っているのではないかといわれないように二つに分けるときは決して→「身体とこころ」と説かれなかったのです。
そのときはナーマとルーパ という言葉を使われたのです。日本語では名色と言います。
*仏教では身体とこころではなく、こころと身体と優先順です。身体は唯の物体です。
*ご理解いただければ感謝いたします。
仏教は
「身体とこころ」ではなく
「ナーマルーパ」(名色)で説く。
今日9日の昼、はま寿司⇒魚べい、はしごして5皿ずつ食べた。
魚べい
夜は、超シンプルキャベツ焼。
玉子なし。創味シャンタン加えたキャベツのみ。
お好みソースとマヨで十分美味しい。
明日から、5:2ダイエット5週目。
(My Favorite Songs)
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