幸せを求めて、不幸になる理由 ダンマパダ(Dhammapada)131偈|ゆるねこ仏教オンライン講座⑯(20 Sep 2022) - YouTube
〔感想〕
幸せを求めて、不幸になる
根本的かつ決定的な理由は
俺・俺のもの妄想
だ。
この妄想にとらわれてる限り、
自分を世界の中心だと思い、
自分の世界が一番だと思い、
世界は自分のためにある
と思う。
この世界の誰よりも何よりも、
圧倒的に自分がかわいいので、
普段は無反省な善人かぶりだが、いざとなれば
「俺を殺すな、でも俺はお前を殺す」
「俺のものを盗るな、でも俺はお前のものを盗る」
という放逸無慚な本音に必ず従ってしまう。
(ショ-ペンハウアーの主著「意志と表象としての世界・正編」第六十一節。西尾幹二訳・中央公論社)から引用させていただきます。
いかなる個人といえども無限の宇宙に比すればほとんど無にも等しいほど小さく、今にも消え入りそうな存在であるにすぎないのに、それにもかかわらず各自があえて自分を宇宙の中心だと考えて、自分自身の生活と幸福とをほかのなによりもまず先に願慮し、いや、それだけにとどまらない、自然のままの立場にいるときには、彼は自分の存在のためとあらば、ほかのあらゆるものを犠牲にしてもよい覚悟であるし、自らは大海のなかの一滴にすぎないというのに、自分の自我をほんの少しでも長く保持するためならあえて全世界の絶滅をも辞さないという心がまえでいる
(引用終。強調は私です)
ショーペンハウアーは、ここで
「俺・俺のもの妄想」の核心を指摘してる。
自分の自我をほんの少しでも長く保持するためならあえて全世界の絶滅をも辞さないという心がまえでいる←これを自己の問題として捉えずに他人事とするなら、いくら考えても時間の無駄になるとおもう。
一例をあげる。
多くの若者が一生非正規の仕事にしかつけない現実がある。
将来への不安から少子化が進むのは当りまえだ。
団塊の世代の老人は、
若者のことや将来の日本のことなど考慮してない。
心配してるのは、自分のことだけだ。
だからといって、
老人が若者より悪いわけじゃない。
今若者の人間も、
老人になれば
まったく同じことをする
からだ。
それが普通の人間の、
最も普通の利己的な生き方だ。
老人も若者も、
自分の自我をほんの少しでも長く保持するためならあえて将来の日本の絶滅も辞さないという心がまえでいる。
これは、獣の生き方と同じだが、
人間は獣より、ずっとたち悪く罪深い。
生き方において、
本能の奴隷である獣には、選択の余地がない。
選択の余地のない所には罪もない。
しかし、
人間は「俺・俺のもの」妄想に自ら執着し、自ら望んで獣の生き方を選択してるからだ。
【真理のことば】ダンマパダ<中村 元訳>
より引用させていただきます。
131
生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。132
生きとし生ける者は幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。
俺・俺のもの妄想で
「人は死んでも、俺だけは死なん」
と信じてるくせに、口先だけで
「死後の幸せ。ケ!人間死んだら終わりさ」
と
みんな「俺・俺のもの妄想」によるダメージを、
あまりにも軽くとらえ過ぎて、不幸になる。