哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

出家的に生きるために 在家の出家

 

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ほんとうの自分を取り戻そうとして、単純に仕事を辞め家庭を捨て、出家組織に入っても、相変わらず同じ世間の中にいるのだから、人生を一転させる自由など絶対にやってこない。

このような愚かな自分探しの旅のおおかたは、自分の居場所がなくなって困窮したあげく、前より酷い境遇に落ち着くことになる。

 

 

現実とは「悪い夢」だ

と気づいた者は、

自分で「良い夢」を作りがちだ。

 


なるほど、善い夢を見るのは、悪い夢を見るよりいくらかは幸福かもしれない。

 


しかし、その両方とも夢に過ぎないと気づいた者は、すべての夢から目覚めたいと願うだろう。
人生で一番の大事は、

夢の中で幸福でいることではなく、
夢から覚めることだからだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、ここまでは良い。

 


せっかくここまで間違わずに正しい道を進んできたのに、大多数の者は次の一歩で大きく踏み外し、あっという間に奈落の底にもろとも転落していく。
 

「目覚める」とは、結局

苦しい現実を喜んで生きようと自分で決心しなおすことだ

という、アホみたいな結論になる。
賢愚の別なくみんな口をそろえてそういう結論になる。


なんじゃそらそら!
 

夢から覚めることが、単にまた最悪の現実に戻って全力でのめり込むことなんかであるはずないだろう。

ちょっと冷静に考えたらわかりそうなもんだろうに。

頭であれこれ考えるだけで、ブッダ直説の修行ができない輩の、あつかましい自己正当化に過ぎない。

 

「目覚める」とはそんなことではない。


ブッダの教えをよくよく聞けば、
「目覚める」の真の意味がきっとわかる。

 


古今東西の様々な哲学と宗教は、貪瞋痴に苦しみながら貪瞋痴に夢中の人間が背に腹は代えられぬ必要からついた大嘘の百家争鳴に過ぎない。

 


現代のように理性が尊ばれ、科学が発達し、合理的思考が興隆を極める時代になっても、なお依然として大多数の人々は、この種の嘘を求めてる。

 


そのため、昔は思想家も単純で、嘘と気づかずついていた嘘が、今は、嘘と百も承知で、未熟な客のニーズに合わせてチープな劣化コピー商品を提供する怪しげな商売になってる。

 


曰く、

 


あなたは、ありのままでいいんですよ。そのままで救われてます。あなたはとっくに悟ってます。あなたは永遠不滅の魂で、けっして死にません。すべてはうまくいっていて、あなたのどんな願いも、すでにかなってます。

何の問題もないと今すぐ気づいてください。

それだけでAll OKなんですよ。

 


みたいな。

 

 

 

 

 

 

自分が聞きたいこと、言ってほしいことを、

ただ見透かして言ってるだけの人たらしを受け入れる。

なんて悲惨なことだろう。

 

 

言うほうも言うほうなら聞くほうも聞くほうだ。

加害者被害者の関係じゃなく、一種の相互依存・共犯関係で、

こういうのを割れ鍋に綴じ蓋と称す。

 

 

 

生きがいも悟りも救いも神も仏も、

まるで100均で買えるありふれた商品のように、

街頭で受け取るポケットティッシュのように、

世間に、ネットに、あふれかえってる。 

 

 

なんと悲惨なことだろう。

 

 

 

 


バートランド・ラッセル「宗教は文明に有益な貢献をなしたか」大竹 勝訳)

より引用させていただきます。

この苦痛の多い世界で、万事このうえなくうまく行っていると信じているひとは、彼の倫理的な価値をそこなわずにおることはできない。それは、常に、苦痛とみじめさとに言いわけをしなければならないからである。
(引用終)

 

 

 

 

 

長年馴れ親しんだ生活と社会の無意味さに気づいたら、
在家の出家をする必要がある。


具体的には
「今ここに気づく」ヴィッパッサナーの専心実行だ。

 


この決意ができないなら、


無意味な生活と社会に、

あらためて馴合う以外の選択肢はない。

 

 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること