古くから床の間の掛け軸などにもなって、こすり倒された
「溪聲山色」 「霊雲桃花」「香厳撃竹」 等の言葉。
世間は雰囲気で何となく、
自然は、善心の味方で、
自然を愛でる豊かな心で悟りに近づける
とおもってるし、
「見色明心」は、
そういう意味のありがたい言葉
と受け取ってる。
それって、まるっきり違うでしょ。
むしろ、事実は真逆だ。
そもそも、この言葉の出典
『従容録第八十二則 雲門声色』で
声を以て求め、色を以て見れば如来を見ず。
と、見色明心を、解脱を妨げる姿勢と断じ、
聞声悟道、見色明心は、観世音菩薩銭を将ち来たって餬餅を買う、手を放下すれば却って是れ饅頭
と評している。
観世音菩薩など持ち出して
頑なな世間を慰撫しつつも、
要するに、
おまえらレベル低過ぎ
と言ってるのだ。
スマナサーラ長老の禅語提唱(十六)見色明心 頓悟のメカニズム
〔メモと感想〕
心は色(物質世界)の奴隷になっている。
(スマナサーラ長老)
これは、
心が勝手に自業自得で物質世界の奴隷になってるだけで、
物質はべつに心の敵になってやろうとおもってない。
しかし
色(物質世界)はべつに心の味方もしない。
「霊雲桃花」「香厳撃竹」 等
それは修行の結果でしょうに。
修行しなきゃできませんよ。
(スマナサーラ長老)
……見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむ。竹豈に利鈍あり迷悟あらんや。花何ぞ浅深あり賢愚あらん。花は年年に開くれども人みな得悟するに非ず。竹は時時に響けども聞く者ことごとく証道するにあらず。ただ、久参修持の功を得て、悟道明心するなり。
(以上)
おれは、大昔二十代、
坐禅しに通い始めた寺の方丈さんに
バカ丸出しで
香厳撃竹の話題を持ち出したことがある。
「香厳撃竹ねえ…」と苦笑されただけだった。
まず坐禅しろよということだったとおもう。
(My Favorite Songs)
James Brown - "The Payback", from doc. "Soul Power" - Kinshasa, 1974.mov - YouTube
(過去記事統合増補編集再録)