から引用させていただきます)
親鸞の解釈の仕方によりますと人間は具体的に生きているとか死んでいるとかいうところ、つまりその人がその人であるというところでは人間は本質的な存在ではない、というのです。これを現在のいい方でいえば、
人間は
いつも現に存在するところのもの
ではない
ということでしょう。現に存在するところのもの、あるいは現にしか存在できないものは、すべて仮の姿で、本質的な人間とはそれらを貫いている何かだと考えたわけです。
(強調は私です。引用終)
この、誰でも本来もっていた感じを、
さくっと忘れてしまうのが平均人だ。
平均人は、
現在の環境に適応するだけになってしまう。
この感じをいつまでも大事に抱き続けている者は、
この予兆的なものに応答しようとする。
ヴィパッサナーせず、
今このままの日常でいいとおもう人は、
これを矛盾だと感じるかもしれない。
今ありのままの日常に
巧みに適応している自分こそ、
今を生きている
とおもってるからだ。
「今」について
何もわかってないからだ。
すでに毒矢が刺さってる自分の今
に気づいてないからだ。
「今」を体得したいなら、
溺れる者が必死で酸素を求めるように
ヴィパッサナーしなければならない。
なにをさし置いてもまず
毒矢を抜かねば、死んでしまうからだ。
(ヴィパッサナーは、してもしなくてもいい修行ではない)
そうすれば気づく。
人間は
いつも現に存在するところのもの
ではない
は、
ヴィパッサナー実践に必須のダイナモであり、
今を生きる
と、何ら矛盾しないと。
から2つリンクを貼らせていただきます。
⇒親鸞の声について
「信仰と善悪は、どうつながっていくのか」
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
(My Favorite Songs)
「クリスタルの恋人たち」
(過去記事統合増補編集再録)