哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

逢佛殺佛


「逢佛殺佛」

は、語録の王といわれる

臨済録の特に有名な偈です。

逢佛殺佛 逢祖殺祖
逢羅漢殺羅漢 逢父母殺父母
逢親眷殺親眷 始得解脱

仏に逢うては仏を殺し、

祖に逢うては祖を殺し、

羅漢に逢うては羅漢を殺し、

父母に逢うては父母を殺し、

親眷に逢うては親眷を殺して、

初めて解脱を得ん



対象と感覚が触れて生じる識別領域の妄想を、

なんであろうと片っ端から殺しまくれ

と言ってるんです。

 

臨済禅師はそのために

 

「自分を徹底的に信じよ」

 

と教えてるんです。

臨済禄は全編ほとんどそれしか書いてないと、おれはおもう。

 

 

悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ 中村 元訳 第2章第9節「耕 作 者」
より引用させていただきます。

(悪魔・悪しき者は、このようにブッダに語った)
修行者よ。眼はわたしのものです。色かたちはわたしのものです。眼が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

嗅覚作用はわたしのものだ。香りはわたしのものだ。嗅覚作用が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

舌はわたしのものだ。味はわたしのものだ。舌が〔対象に〕触れて起こる識別領域はわたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

身体はわたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。触れられるものは、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか?

心はわたしのものだ。心で考えられるものも、わたしのものだ。心の接触から起こる識別領域は、わたしのものだ。そなたは、どこに行ったら、わたしから脱れられるのだろうか。
(以上引用終)

 

 

対象
色声香味触法の六境(六外処)

感覚
眼耳鼻舌身意の六根(六内処)

六境六根合わせて十二処という。

 

対象と感覚が触れて生じる6種の
識別領域
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の六識

十二処とこの六識を合わせて十八界という。

 

十八界(六境六根六識)は、この世の一切を意味する。

したがって悪魔は、ブッダ

 

この世の一切はわたしのものだ。

誰一人わたしから脱れられない。

そなたも、どこに行こうと

わたしから脱れられない。

 

 

と脅してるのだ。

 

この世の一切が悪魔のものだということは、

ブッダ初転法輪の初めから、明確に認めてる。

(そのうえで、こうしたら悟れたという唯一の道を発見し、説き広めた)

これを認めてないのは、悪魔の策略に気づきたくない、世間の人々なのだ。

悪魔の支配下で絶えず苦しみながら、

その苦を愛し夢中になってる。

やがて必ず自分を殺す刺客を、

恋人のように慕ってるのだ。

彼らは

自分を信じてないから、

誰一人悪魔から脱れられない。

 

病なんの処にか在る。

病は不自信の処に在り。
臨済録

 

 

 

自分を深く信じるためには、
自分に対して一切ごまかしがあってはいけない。

自分の心は自分ではない。

自分の心にごまかされないように、
よく注意すること(satiが大事です。



憎む人が憎む人にたいして、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、(よこしま)なことをめざしている自分の心が自分に対して自分でなすほどには、それほどひどいことをしない。
ブッダの感興のことば31・9中村 元訳)

 

 

 

 

「人は死んでも、自分だけは死なない」
と邪な心は盲目的に渇望し、

自分を根底からごまかしてる。

この状態で、自分を信じることは不可能です。

 

 

母も父もその他の親族も、正しく向けられた心が自分のためにしてくれるほどの益をしてはくれない。
ブッダの感興のことば31・10)




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs) 

ジグソー。
スカイ・ハイ

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(過去記事統合増補編集再録)