哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

ひとつしかない瞑想――見守ること

Osho, The Great Zen Master Ta Hui, #28 より抜粋「ひとつしかない瞑想――見守ること」
から引用させていただきます。


 ある村に、ひじょうに怒りっぽく、攻撃的なタイプの男がいた。暴力的なあまり、些細なことで妻を殺したほどだった。男は暴力をふるうばかりで、口論するということを知らなかったので、村中が怖れていた。
 
 彼が妻を井戸に投げ込んで殺した日、ジャイナ教の僧が通りかかった。人だかりがしていたので、ジャイナ教の僧は言った。「怒りと暴力でいっぱいになったこの心が、おまえを地獄へと導くだろう」
 
 ひどい状況だったので、男は言った。「私だって、あなたみたいに静かになりたいのだ。でも、どうしろというのか? 私はなにも知らないのだ。怒りにつかまると、私はほとんど無意識になってしまう。そして今、私は最愛の妻を殺してしまった」
 
 ジャイナ教の僧は言った。「この、怒りと暴力と激怒でいっぱいになった心が動かないようにする唯一の方法は、世間を捨てることだ」。ジャイナ教は放棄の宗教で、究極の放棄には衣服も含まれる。ジャイナ教の僧は裸で生きる。衣服でさえも所有することを許されていないからだ。
 
 その男はとても傲慢なタイプだったので、これが彼にとっては挑戦になった。人だかりを前にして、彼は自分の服も妻といっしょに井戸に投げ込んだ。村中の人びとが目を疑った。ジャイナ教の僧さえも、「狂ってでもいるのか」と少し心配になった。男はひざまずいて言った。「あなたは放棄という段階に達するまで何十年もかかったことでしょう……。私は世間を捨てます、あらゆるものを捨てます。私はあなたの弟子です――入信させてください」
 
 彼の名前はシャンティナスといって、シャンティとは「平和」という意味だ。よくこういうことがある……醜い女性を目にするとき、ほぼ間違いなく彼女の名前はスンダーバイだということがある。それは「美しい女」という意味だ。インドには不思議なやり方がある……目の見えない人にナヤン・スックという名前をつける。ナヤン・スックとは、「目が大いなる楽しみを与えてくれる人」という意味だ。
 
 ジャイナ教の僧は言った。「おまえは素晴らしい名前をもっている。変えないでおこう。そのままにしておこう。だが、この瞬間から、平和がおまえのかもしだす空気そのものにならなければならないことを覚えておかなければならない」
 
 男は自分に規律を課し、心を動かさず、長いあいだ断食し、自らを痛めつけ、すぐに自分の師よりも有名になった。怒りっぽい人、傲慢な人、自己中心的な人たちは、穏やかな人たちであれば少し時間がかかることでも、やってのけることができる。彼はひじょうに有名になり、実に多くの人びとが彼の足に触れるために、いつもやって来るようになった。
 
 20年後、彼は都にいた。彼と同じ村の男がなにかの目的があって来ていて、こう考えた。「シャンティナスにどういう変容が起こったのか、行って見てくるのもいいな。いろんな話が伝わってくる――彼はまったく新しい人間になったとか、古い自己はなくなり、新しい、新鮮な存在が彼のなかに生じたとか、ほんとうに平和に、静かに、冷静になったとか」
 
 そこで、男はひじょうな敬意を抱いて出かけていった。だが、ムニ・シャンティナスを見たとき、その顔、その目を見て、なにか変化があったとは思えなかった。静かになった心からは当然、放たれているはずの優美さがまったくなかった。その目は依然として自己中心的だった――実際には、前にもまして目立つほど自己中心的になっていた。彼の様子は以前よりさらにもっと醜くなっていた。
 
 それでも、男は近くに寄っていった。シャンティナスにはその男が分かった。彼はかつての隣人だったのだ――だが、今となっては、彼を認めることなど体面にかかわることだった。男にもシャンティナスが自分のことを分かっていることが分かったが、彼は分からないふりをしていた。彼は考えた。「これで多くのことがはっきりする」。彼はシャンティナスのそばに行って、たずねた。「ひとつ、お聞きしてよろしいでしょうか? あなたのお名前はなんとおっしゃるのですか?」
 
 当然、シャンティナスのなかで大きな怒りがこみ上げてきた。この男が自分の名前をよく知っていることは分かっていたからだ。だが、それでも彼は自分をコントロールしつづけ、こう言った。「私の名前はムニ・シャンティナスだ」
 
 男は言った。「素晴らしいお名前です——でも、私は忘れっぽいのです。もう一度おっしゃっていただけますか? 忘れてしまったのです……お名前はなんとおっしゃいましたか?」
 
 これはあんまりだった。ムニ・シャンティナスはいつも棒をもっていた。その棒を手に取り……彼はすべてを忘れた——心のコントロールに費やした20年――そして、彼は言った。「もう一度たずねてみろ。そうすれば、私は誰なのか、教えてやる。おまえは忘れたのか? 私は妻を殺した、その同じ男だ」
 
 そこで初めて、なにが起こったのか、彼には分かった……
 
 無意識の一瞬のうちに、彼は20年が無駄だったことを悟った。彼はまったく変わっていなかったのだ。
……………………
……………………

 ある僧がゴータマ・ブッダのメッセージを広めようとしている。彼自身は、まだ光明を得ていない。そのために、ゴータマ・ブッダは彼を呼んで言う。「覚えておきなさい。あなたはまだ光明を得ていないから、私はこのことを言わなければならない……あなたは理路整然としている、話すのがうまい、メッセージを広めることができる。種を蒔くことはできないだろうが、何人かの心を惹きつけて、私のところに来させることはできるだろう——だが、この機会をあなた自身の成長のためにも使いなさい」
 
 僧はたずねた。「どうすればいいのですか? この機会を利用するには、どうすればいいのですか?」
 
 すると、仏陀は言った。「あらゆる機会で、あらゆる状況で、できることがひとつだけある。それは、見守っていることだ。ときには人びとがあなたに苛立ち、怒ることもあるだろう。あなたが彼らのイデオロギー、彼らの教義、彼らの先入観を傷つけたからだ。沈黙し、見守っているがいい。人びとがあなたに反対し、水さえも与えてくれず、食事が得られない日もあるだろう。見守るがいい……自分の飢えを見守る、自分の渇きを見守る……だが、苛立ってはいけない、不快に感じてはいけない。あなたが人びとに教えることは、あなた自身の見守りほど重要ではない」
 
 「もしあなたが見守って帰ってきたら、私はとてもうれしい。あなたが何人の人に働きかけたかは問題ではない。何人の人に話したかは問題ではない。究極の問題は、あなたが帰ってくるかどうか、あなた自身が観照のしっかりした根底を見出しているかどうかということだ。そうであれば、他のことはすべて、重要ではない」
 
 これが、ひとつしかない瞑想だ。他の瞑想はすべて、同じ現象の変形だ。

(引用終)

 

 

次に(『存在の詩』 Osho)から

引用させていただきます。

 

 漂っているのは思考であり
あなた自身は思考ではなく思考が漂っている空間そのものである

 

 

 

決して目に見えるものと戦わないこと
さもなければ、あなたは影法師と戦っていることになるだろう
それでは、あなたが自分自身をすりへらすことはあっても
あなたの人生にはこれっぽっちの変化も起こり得ない
同じ問題が何度も、何度も持ち上がることだろう

ひとつひとつの独立した問題を解決しようなどとしないこと
そんなものはありはしない
心そのものが問題なのだ

 

 

 強欲を見守りなさい 怒りを見守りなさい 性欲を見守りなさい 所有欲を 嫉妬を…ひとつだけ覚えておかれねばならないこと…同化されてしまわない ただ見守るだけでいい

 

 

 

 社会の目標はどうやって適応された個人を作りだすかに尽きる 
しかし、もしその社会全体が間違っていたら それに適応されるのがいいことであるはずがない
もしその社会全体が狂っているとしたら それに適応するのは狂うことでしかない


まずはじめにほかの誰に奉仕しはじめるより先に完全に利己的になれ


 

 

 

 

 

 

忘れっぽさこそ真の闇だ

 

 

 

 

 

 

 

<体験>にではなく その<観照者>に焦点をあわしなさい
たとえどんなに素晴らしくても一切の体験はみな夢もどきにすぎない

人はそれらをすべて乗り越えて行かなくてはならないのだ


 

あなたのちっぽけな自我によってあなたは<全体>と戦う
それには何百万生もいることだろう それでもまだ、悟るなどということはありそうにも思えない
<全体>と戦うなんてばかげている あなたはただの一部分に過ぎないのだ
それはまるで波のひとつが海と戦っているみたいなものだ 一枚の葉っぱが木と戦っているようなものだ 一体誰とあなたは戦っているのか?

道徳は闇と戦おうとする
宗教のほうは内に隠された光を目覚まそうとする


自分の人生を決まりきったパタ-ンにはめ込もうとしないこと それがそれ自身のコ-スを取るのを許すのだ すべてを受け容れなさい 受容を通して二元性を越えなさい
そして生がそれなりの進路を取るのを許すのだ そうすればあなたはたどり着くだろう
必ずたどり着くだろう この必ずというのは、あなたがたを安心させようとして言っているわけじゃない それが事実だからこそ言うのだ これはあなたがたの安全性の保証じゃない 野生のものは必ずたどり着くのだ
それが何であれ自分が今いる場所を・今の自分を・そして自分に起こっていることのすべてを受け容れてごらん
それで初めてあなたは「ゆったりと自然に」なれる
さもなければそれは空念仏にしかすぎない



この瞬間こそ彼にとって唯一の瞬間だ 次の瞬間は次の瞬間が自分で面倒を見る 次の瞬間が来たときに彼はそれもまた受け容れる…楽しみ、至福に満ちて…








<体験>にではなく その<観照者>に焦点をあわしなさい
たとえどんなに素晴らしくても一切の体験はみな夢もどきにすぎない
人はそれらをすべて乗り越えて行かなくてはならないのだ

(引用終)










 いろんな意味を込めてのOshoの説法だとおもいますが、

 

要するに

 

ヴィパッサナーを実践しなさい
 

って結論になるとおもいます。


 

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(My Favorite Songs)

「マイ・ガール」

My Girl - The Temptations (Boyce Avenue acoustic cover) on Spotify & Apple

www.youtube.com

 

 

(過去記事統合増補編集再録)