哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

自力と他力で表現方法が違うだけで、 内容は全く同じ

過去記事2016/9/24
どうしようもないダメな自分
を丸ごと心底信じきること
機の深信がそのまま法の深信だ
という、機法一体の自覚
は同じ内容だ。
 

 

と書きました。

 

どうしようもないダメな自分
を丸ごと心底信じきること
 
とは、以下のようなことです。
 おれには仏教とキリスト教の呼応関係を見つけて喜ぶマニアックな趣味があります。
ヒルティの言葉を(幸福論第二部「人間知について」草間平作・大和邦太郎訳)から、引用します。
引用文中の強調は私です。
青文字ヒルティ引用文。
途中赤文字が澤木老師引用文。
黒文字は私の意見です。
 
 
 
 
だれでも、その生まれつきの気質をすっかり変えてしまうことなど、出来るものではない。
むしろその特質をそのまま純化することの方が、はるかに容易である。
 
 
 
そのためには、まずありのままの自分を深く信じなければならない。
ブッダは「自灯明」と示し、臨済禅師は「病は不自信の処に在り」と断じて、自分を信じることの重要性を説いた。


生まれつきの気質をすっかり変えてしまうことなど、出来るものではない。
 
 人は誰でも、他人に知られたら恥ずかしいことを隠れて思ったりしたりしている。
大部分の道徳的たろうとする人々は、その恥ずべき自分の思いや行い全体を粗雑に圧殺しようとするが、それはできるものではない。
その結果は、信じられない自分を自他に隠す偽君子に成り下がり、一生の辛苦がむだ骨折りになる。
他人は騙せても自分は騙せない。
ダメな陰の自分を自分だけはごまかしようもなくよく知っているからだ。
それゆえ自分を信じることができない。
自分を信じない者の人生は必ず失敗に終わる。




 自分は意志が弱いからダメだと思ってるのに、なんとなくそのままにして生きてる人は、自分を信じてる状態ではない。
意志の弱い自分を丸ごと心底信じきるか、それが無理なら(普通無理なんですが)、一度やると決めたことをできるだけ実行することで、信じることができる自分に日々少しずつ近づく努力を続ける。

続けてさえいれば、それはほぼ自分を信じている状態に等しい。
 
自分を信じることができた時、自分の意志が弱いとか強いとか気にしない人間になっているとおもう。

 
 
 
 
 「丸ごとの自分を心底信じきる」について最高の教えは、澤木興道老師によって説かれている。
そのほんの一部を引用する。
 
 一切衆生は唯我独尊じゃ、自分が自分を生きるよりほかはないんじゃ。
それをどうして見失うたか。
世間の見本が悪いからじゃ。常識といい、社会意識といい、党派根性といい、一切合切みんな見本が悪すぎる。
 
よく人々は位の高い人をたくさん並べて、だれがいちばん偉いだろうなどと言うが、そんなひがんだこと言わんでも良い。
私はいつも「おれだ」という。
「なんだあんな乞食袋を下げて…」と他人は言うかもしれないが、しかしおれは他人の鼻を借りて息をしておらん、おれはおれの鼻で息をしているんだ。
自己を冒涜せず、自己を極度に発揮するのが成仏と言うのだ。


 
 
 
 
 真の自信が持てなければ、自分の特質をそのまま純化せよというヒルティの有益な助言も実行できない。
大抵の人が実行困難にちがいないこの方法を、ヒルティはきわめて容易だと教えている。
論理の混乱ではなく、ここは易往而無人往き易くして人無しの消息に通じる話になっている。

普通無理な丸ごとの自分を心底信じきるという「神速の一手」を使えるのは、自分の生まれつきの気質を変えようとせず、その特質をそのまま純化する(できる)人に限るともいえる。
はっきり言うと、生まれつき下意識で自分を深く信じている人間だけが、「神速の一手」を使って覚醒した自信に帰着できるということだとおもう。
つまり、人間は、自分を深く信じて生まれてくる人間とそうでない人間の2種類しかいない。
そして、自分がどっちの人間かは、実際に自分の特質をそのまま純化するを本気でやってみた末に初めて分かる。



















人生にはどうでもいい事柄が実に限りなくあるものだが、そうしたことではつねに他人の意志に従うべきである。
そうすれば楽に人生が送れるし、よい友達も造作なく出来る。




悪に出会ったら、それを赦すよりも忘れる方がはるかにまさっている。
赦すのは、まだ幾らか苦々しいあと味が残り、また「下らぬ」侮辱者を超然と見下ろそうとする一種の傲慢がつきまといやすい。




よい企ては常に即座に実行しなければならない。
すぐに実行できないような企ては、決して重要なものとは認められない。

(「人生の段階」より。引用文中の強調は私です)



ヒルティ 【Carl Hilty】
(1833-1909) スイスの法学者・哲学者。
プロテスタントの立場から倫理的著作を残す。
著「幸福論」「眠られぬ夜のために」など。
大辞林
以上。
 
 
次に、
 
機の深信がそのまま法の深信だ
という、機法一体の自覚
 
とは、以下のようなことです。

 

中国浄土教の大成者善導和尚の言葉とスイスの哲学者ヒルティの言葉が、時間と空間を超えて呼応し合っていて、互いに相手を照らす関係として両者を捉え直すことができ、そうすることで理解が深まる。
 
 
ヒルティ幸福論第二部「人生の段階」草間平作・大和邦太郎訳)から引用します。
 
信仰は神の賜物であって、人はそれを勝手に自分に与えることはできない。…

自分はいつになったら信仰を持つことができようかと、さしあたり絶望しているような多くの人達の方が、ただ外面的に同意しただけで信仰を持っていると思いこんでいる人たちよりも、内的にはいっそう信仰に近づいているのである。…

このような状態にありながら絶望し、自分がどんなに救いに近づいているかを悟りえなかった人々こそ、あらゆる人間のなかで最も憐れむべき人である。
(引用終。強調は私です)
 
 
 
 絶望は救いに近づくための必要条件ともいえる。パウロは『ローマの信徒への手紙』に「律法は初めから誰も守れないようにできていて、人間に罪悪を自覚させるためにある」という意味のことを書いています。これは他者への咎めではなく、自戒とするときにのみ有益な意味を持ちます。自分がどうにもならない極悪人だと知った者だけが、本気で救いを求めるようにもなるからです(さもなければ精神は自殺する)悪人正機とは、この事を云ったものです。
 
 
「自分はいつになったら信仰を持つことができようか」という絶望の極北は、善導大師による

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし
 
の自覚でしょう。

善導大師のすごいところは、この底なしの絶望が、そのまま深信に他ならないと力強く説いたことです。

これを「機の深信」といいます。

機の深信は、もうひとつの「法の深信」とセットになっている(機法一体)という事実に気づくことが重要です。

思いが、機の深信だけだと自殺するしかなくなってしまうからです。

かの阿弥陀仏四十八願衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず
が「法の深信」です。

思いが、法の深信だけだと軽薄に流れてしまいます。

機がそのまま法であるという、機法一体の自覚が重要なのです。

自分の影法師が濃く見えるのは、背後から自分に強いスポットライト(弥陀の光明)が当たっているからだ
という気づきを、教学的に表現すれば、機法一体の自覚になります。
 

おれには、ヒルティの言葉が、この二種深信の見事な解説に聞こえるのです。

 

2019年5月28日に発生した、川崎20人巻込み自殺事件。

アメリカでずいぶん昔から毎年恒例で起き続ける銃乱射による巻込み自殺事件。

(この記事を推敲してる最中にも、今日10月31日午後8時ごろ、京王線の車内で、20代の男が可燃性液体をまき、一人を刃物で刺し、複数人にけがをさせ、逮捕されたというニュースが伝わってきた。まだ詳細は不明だが、どうなってもいいという絶望感のなせる、はた迷惑すぎる自殺行為だとおもう)

 

 

これらすべての巻込み自殺事件が持つ共通の本質はなにか。


おれは、ヒルティの言葉

…絶望し、自分がどんなに救いに近づいているかを悟りえなかった人々こそ、あらゆる人間のなかで最も憐れむべき人である。

 

を思い出す。

 

 自分を苦しめる底なしの絶望が、

そのまま深信に他ならない 

 

と気づけるまたとないチャンスを無にして、

彼らは巻込み自殺という最悪の選択をし、実行してしまった。

 

 

 

最近の社会は、もっぱら法の深信を浅はかに礼賛し、機の深信の重要性をほとんど無視している気がします。
近年頻発する巻き込み自殺事件はそんな社会に対する反動で起きている側面もあると思います。
 


おれはこのブログで、もっぱら機の深信方面を強調してきましたが、おれなりにバランスをとろうとしているのかもしれません。

機の深信から入って、それがそのままに法の深信だったと発見することが、おれには自然な流れに思える。
法の深信から入って、それがそのままに機の深信だったと発見することは、自然な流れに思えない。それは頭だけの軽薄な理解に留まる危険がある。ただ外面的に同意しただけで信仰を持っていると思いこんでいるとは、そういうことを云っていると思います。

以上。

 

こういうわけだから、

どうしようもないダメな自分
を丸ごと心底信じきること
機の深信がそのまま法の深信だ
という、機法一体の自覚

は、

表現方法が、
自力と他力で違うだけで、
内容は全く同じです。

 

 

……宗教に興味のない人には、

なにを言ってるのか分かりにくいかも……

 

(過去記事統合増補編集再録)