哲学日記

存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (とはいえ、途中から懐かしいロック、日々雑感等の増量剤をまぜてふやけた味になってます)

映画「殯の森」

 この映画を知るまで
 
        殯
 
という言葉を一度も聞いたことがなかった。
だから、意味はもちろん、読みさえも知らない。

 
エンドロール直前にもがり)の説明文が出る
 
敬う人の死を惜しみ、しのぶ時間のこと またその場所の意…
 
と。
 
 
 

 

 この映画の認知症の主人公しげきは、33年前に死んだ妻・真子の死を今も受け入れず、死者の幻影と共にいる。

 

 

 老人ホームの年寄達が子供たちに語り聞かせる。
「死んだらな、あの世いうとこがあってな…おじいちゃんやおばあちゃんやなんかは先に行って、お前らが来るのをやな、待ってたるから」

大昔からじいさんばあさんは孫達に、このような嘘八百の作り事を、まったく悪気なく、いかにも本当のように言って刷り込んできたのだ。
 彼らも子供の頃、爺さん婆さんや親からそう刷り込まれたので、それを繰り返してるだけなのだ。

 そんな定型文で事が済むなら、ブッダもキリストも出番がないし、殯の森も必要ないし、しげきと真千子の彷徨も甲斐ないことだが、本物の人間は、そうはいかないのだ。
 

映画の中で、僧侶が述べる
「真子さんが亡くなられて33年になりますから、今年は真子さんが仏さんの世界に入り込んでしまわれた年なんです。仏さんになったので、もうこの世に戻ったりはされません」
 
これは世知に長けた無難な落し所なのだが、しげきは決して受け入れない。
 
 
 
 無いことを有ることにするのが、
他のいかなる動物にもできない人間固有の能力、
あるいは悪癖だ。

この能力によって文明文化を作るが、
ありとあらゆる禍も作り出し、
人間は自業自得で際限なく苦しんでいる。

 

 
 
この際限のない苦を、真に抜く力は、仏法にしかないが、これまでのところ、人間社会は、仏法をお飾りにしかできない
 
そんな人間には、Bプランとして今も必要なはずの殯さえ廃れたから、社会の全てが浮ついた安っぽいまがい物になったのだと、この映画を観終わっておもった。
 
 
 
 
殯(もがり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(過去記事統合増補編集再録)